黒手塚が芸術的なレベルに到達した短編集 

手塚治虫の傑作短編集「サスピション」を取り上げたい。これは昔から僕がかなり気に入っている隠れた傑作で、もっと早く紹介したかったのだが、遅くなってしまった。

知る人ぞ知る傑作短編シリーズなのだが、実は3編しかない。だがいずれの作品も完成度が高く、甲乙付け難い傑作となっている。

わが家にある手塚治虫の「サスピション」の写真。2種類。
わが家には2種類の「サスピション」がある。いずれも現在は入手できなくなっているが、文庫と電子書籍では読めるのでご安心を。

黒手塚ならではの暗く、人間の暗黒面を見つめる作品だが、黒手塚ど真ん中のどうにも救いようのない暗さではなく、この「サスピションの3編」は、黒手塚を直球で描くというよりも、人間のどす黒い欲望や、相手を信じられない不信感、疑惑といった人間の感情をリアルかつ客観的に描いて、黒手塚が芸術的なレベルに到達したような手塚治虫の最高の職人芸を目撃できる、そんな作品集だ。

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「サスピション」の基本情報

3編からなる短編作品集である。掲載雑誌は講談社のコミックモーニング。1982年(昭和57年)10月から毎月1本ずつ12月まで連載された。

時に手塚治虫は54歳、連載中に55歳になる。

この頃の手塚治虫は、大人気だった「ブラック・ジャック」はそのほとんどの連載を終え、不定期に単発で発表していた時代である。少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」の後を受けた「七色インコ」の連載も終了しており、漫画界最大の大家、レジェンドとしての地位を築いていた。

ポイントは、「サスピション」の3回目が発表された翌月、1983年(昭和58年)の年明けからあの未曾有の大傑作「アドルフに告ぐ」の連載が週刊文春で始まったことだ。サスピションの連載の途中で、あの「アドルフに告ぐ」の連載をスタートさせたというのは、大きな出来事である。

それぞれの作品は、ページ数にして全て22ページに統一。タイトルと表紙を入れて23ページとなっている。あの「ブラック・ジャック」の各エピソードは基本的には20ページだったので、2ページ長くなっている。

短編漫画としてこの22ページというのが理想的な長さなのかもしれない。長過ぎることもなく、短過ぎることもない。

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「あとがき」の手塚治虫の言葉

今は文庫本さえも絶版となって入手できない作品が増えている講談社の手塚治虫全集。その「サスピション」の手塚治虫の「あとがき」がある。

「サスピションというのは、疑惑とか不安といった意味です。講談社で『コミック・モーニング』が創刊されたとき、カスタムコミックとしてかきました。もっと続けたかったのですが、ほかの週刊誌に連載がはじまったために中断されてしまったものです。」

と書いている。

上述のように、サスピションはわずか3話だけで終了してしまったのだが、「ほかの週刊誌に連載がはじまったため」と書いてある作品が、ズバリ「アドルフに告ぐ」だったというのが、感慨深い。

ここで注目してもらいたいのは、「もっと続けたかった」という手塚治虫の言葉。

この「サスピション」、手塚治虫自身も気に入っていたのである。

「アドルフに告ぐ」という手塚治虫畢生の名作のためにはやむを得なかったと考えるが、何とも残念な話しであった。

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どんなストーリーなのか

3編はそれぞれが完全に独立したストーリーで、相互に全く関係がない。ストーリーもシチュエーションも全く異なっているが、相手への不信感や疑惑、憎しみによってドンドン疑心暗鬼に陥って、やがて殺意がめばえるものの、それが思わぬ展開で想定外の方向に向かってしまうという点は共通している。

手塚治虫自身がいう「疑惑」「不安」としてのサスピションが、全く異なるシチュエーションながらもドンドン膨らんで行って、最後にカタストロフが起きる。

手塚治虫のストーリーテラーとしての才能と、盛り上げ方が実に巧妙で、堪能させられる。

それぞれの作品のストーリーを簡単に紹介しよう。

第1話 ハエたたき

ロボット製造会社のパソ・ロボ(パーソナルロボットの略だろうか)設計士として自分の腕は完璧だと自負している主人公の男は、会社のオーナーである美人の妻が、株主総会で自分を差し置いて、専務を社長にしたことから、妻に殺意を抱く。

「ハエたたき」の1シーン
「ハエたたき」の1シーン。妻の殺害を計画する男。

 

自分が設計した調理ロボットを使って、殺人を計画。次の料理の材料として妻のデータを入力し、そのとおりに作動すれば妻は事故死として完全犯罪が達成され、妻の株を譲り受けて自分が社長に収まるつもりだった。

ところが、肝心の調理ロボットが誤作動して、事態は思わぬ方向に進んでいく・・・。

「ハエたたき」の1シーン
「ハエたたき」の1シーン。この後で妻は調理ロボットで殺害されるはずだったが。

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第2話 峠の二人

ある悪徳な高利貸しの男が、借金の返済から逃れるために姿をくらましていた若い男を見つけ出し、3年前に貸した500万が今では1,200万に膨らんでいると返済を強く迫る。

若い男は家に金があるので一緒に行こうと案内するのだが、そこは人里離れた人っ子一人いない山奥で、家の直前には老朽化した危険な吊り橋がかかっていた。

「峠の二人」の1シーン
「峠の二人」の1シーン
「峠の二人」の1シーン。殺されるに違いないと不安になってくる高利貸し。
「峠の二人」の1シーン。殺されるに違いないと不安になってくる高利貸し。

 

そこを案内させられた高利貸しの男は、この男が途中で自分を殺そうとしていると疑い始め、その疑惑がドンドン膨らんで、遂に思わぬ行動に出るのだが・・・。

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第3話 P4の死角

ある近未来、某大学では人の遺伝子の組みかえを進めようと、万全の管理体制の下で実験を繰り返していたが、教授の一番弟子の樋口が実験室での作業中、コンピューターの誤作動があって、実験用のDNAを注射されてしまう。

「P4の死角」の1シーン。コンピュータの誤作動で注射が刺さってしまい、パニックに陥る樋口。
「P4の死角」の1シーン。コンピュータの誤作動で注射が刺さってしまい、パニックに陥る樋口。

 

樋口は図らずも実験台の生物となり、一切外に出ることが厳禁され、狭い実験室に死ぬまで隔離されることになってしまった。

「P4の死角」の1シーン。死ぬまで出られないと言われ、教授に必死で救済を訴える樋口。
「P4の死角」の1シーン。死ぬまで出られないと言われ、教授に必死で救済を訴える樋口。

 

必死で救済を訴える樋口の願いは受け入れられず、歳月が経過。その間、樋口の身体には遺伝子組み換えによる変化は何も起きなかった。そして10年が経過。教授とある若い女性が現れる。そこで思わぬ真相が明らかになるのだが、それが新たな悲劇の始まりあった・・・。

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ハラハラドキドキ、興奮が収まらない

3編のいずれもが上質なサスペンスに彩られた傑作で、ハラハラドキドキの興奮が収まらなくなって、一気に最後まで読み切ってしまう。

まるでヒッチコックの超一級のサスペンス映画のようだ。

人間不信と疑惑が、どのような悲劇を引き起こすのか。手塚治虫の人並外れたストーリーテラーぶりに完全に乗せられ、その事態を目撃することになる。

非常におもしろいし、シチュエーションそのものはかなり特殊なものではあるが、登場人物たちの心理状況としては、我々の日常の中でも起こらないとは言い切れないものばかりで、大いに考えさせられるテーマでもある。

実に良くできた傑作短編だと、改めて手塚治虫の才能に感心してしまう。

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黒手塚というよりも、冷徹な人間観察

これは手塚治虫作品の分類としては黒手塚に他ならないが、冒頭で書いたように他の代表的な黒手塚作品とは一線を画している。

手塚治虫はこの「サスピション」シリーズで、人間の心理を冷静かつ冷徹に観察し、少し距離をもって客観的かつ余裕さえ持って、この設定を楽しんでいるきらいさえある。

精神的にも経済的に余裕が出てきた巨匠が、じっくりと落ち着いて、欲と疑心暗鬼から抜けられない愚かな人間たちの姿を、少し余裕をもって活写しているように感じる。

黒手塚を凌駕したと言ってもいい

慾に憑りつかれた現代人の心の病巣奥深くに切り込んだ作品とで、黒手塚を凌駕したと言ってもいい。

一時期の作者そのものの叫び声が聞こえてくるような救い難い黒手塚の要素は、ここにはない。愚かな人間の姿を眺める神のような視線を感じると言ったら、言い過ぎだだろうか。

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知られざる極上の短編を楽しんでほしい

大家による最高の職人芸を見せつけられたたような気持ちになる。

読みごたえ十分の傑作だ。あまり知られていない作品だが、手塚治虫が自らの能力を存分に用いて描いた極上のサスペンスである。

今までに何度も書いてきたが、手塚治虫は長編も凄いが、短編の最高の名手である。この「サスピション」でも、手塚の短編漫画の醍醐味を存分に味わえる。

手塚治虫の極上の傑作短編を堪能してほしい。

 

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現在、紙ベースで読めるものは講談社の手塚治虫文庫全集しかありません。しかも3編合わせて70ページ弱の短いもので、単独では出ておらず、以前紹介した「グリンゴ」の第2巻の余白に収められていますので、注意してください。

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◎手塚プロダクション版 330円(税込)。

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