ベートーヴェンの全ての弦楽四重奏曲を個別に紹介する各論編の3《後期》である。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に関する通算で4本目の記事となる。

今回は、音楽史上、未曽有の特別な高みにある孤高の名作群の登場である。

アマデウス弦楽四重奏団のベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の後期のジャケット写真など
ブルーレイオーディオが収められているアマデウス弦楽四重奏団のBOXから後期のCDのジャケット写真。

 

おさらい:ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全体像(後期)

前回に引き続き、おさらいとして全体像(後期)を確認しておきたい。作曲された年代とその時のベートーヴェンの年齢、及びおおよその演奏時間を示しておく。

該当する後期に属するCD(3枚組)を広げると、各楽章毎の演奏タイムも明確に掲載されている。

 

何度も触れているが、この部分はスマホで読んだいただくと、非常に読みにくい表示となっている。是非ともパソコンでご確認いただきたい。

【後期】 7曲

晩年のベートーヴェンの肖像画。
晩年のベートーヴェンの肖像画。

 

第12番変ホ長調 Op.127 作曲:1824年 年齢:54歳 約42分 
第13番変ロ長調 Op.130 作曲:1825~26年 年齢:55~56歳 約35分
第14番嬰ハ短調 Op.131 作曲:1826年 年齢:56歳 約38分
第15番イ短調 Op.135 作曲:1825年 年齢:55歳 約43分
第16番ヘ長調 Op.135 作曲:1826年 年齢:56歳 約24分
弦楽四重奏のための「大フーガ」変ロ長調 Op.133 作曲:1825年 年齢:55歳 約17分

通し番号と作曲された年代が前後している点に留意してほしい。作曲された順番と通し番号は一致していないことになる。

全体を大掴みで把握してほしい

この部分は、各論編の1・2と重複している部分が多いので、既にお読みの方は飛ばしてくれて問題ない、念のため。

初期に属する作品18の6曲セットを30歳で完成させたベートーヴェンは、ほんの数年後に大きな飛躍を遂げる。作品18の6曲セットから6年後、再び作曲した弦楽四重奏曲が「ラズモフスキー」と呼ばれている3曲セットだ。作品59の3曲である。

弦楽四重奏曲として初めて愛称が付いた曲集。これがベートーヴェンの最盛期に作曲されたベートーヴェンの全ての弦楽四重奏曲の中の最高傑作とされる名作中の名作である。

ここで頂点を極めた弦楽四重奏曲の作曲は、総論編で書いたようにベートーヴェンの生涯を通じて最大規模の大作であった「ミサ・ソレムニス」と「第九交響曲」を作曲した後、死ぬまでの3年間、ひたすら弦楽四重奏曲の作曲に打ち込むことになるのだが、最高傑作と言われるラズモフスキー3曲を作曲してから、後期の名作群を作るまでに、橋渡し的な作品を2曲作曲している。

それが「ハープ」と「セリオーソ」という愛称の付いている過渡期の2曲である。

このあまり目立たない2曲の後、「ミサ・ソレムニス」と「第九」という大作を作り上げて、いよいよ自分自身とトコトン向き合う後期の名作群の誕生となる。これが全体の流れである。

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前人未到の未曽有の名作群

後期の名作群は、「大フーガ」と呼ばれる作品番号のない単一楽章を含めて全7曲。

これは音楽史上、最高の名作群として知られているものだが、個別の曲の紹介に行く前に、いくつかの点について考察をしてみたい。

耳が全く聞こえなくなった後の、孤独の淵の中でひたすら自分の内面と向き合った創作と繰り返し書いてきた。弦楽四重奏という弦楽器4台だけによる曲はいかにも地味だと思われるが、実は時間的にはかなり長めの作品が多いことに注目してほしい。

4つの弦楽器だけによる非常に小編成の曲なのだが、残された弦楽四重奏曲は、時間的にはいずれも40分前後の長めの力作、大作が並んでいる。

これは注目されていい事実。

ベートーヴェンは生涯の最後の創作において、自分の内面と深く向き合って弦楽四重奏曲ばかりを集中的に作曲したわけだが、弦楽四重奏という非常に小さな器を用いながらも、ベートーヴェンはかなり長い大きな曲、内容が目一杯詰まった曲を作り続けたのである。

思い込みと先入観は禁物だ

思い込みと先入観は本当に本質を見誤る。

このベートーヴェンの弦楽四重奏曲をじっくり聴くだけで、そういう人の世にはびこる誤った認識に深く思い至るのだ。

軽視されがちな作品18が名曲揃い

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は中期にラズモフスキー四重奏曲という最高傑作があり、後期は音楽史上の至高の名作群などと口を極めて絶賛されるので、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴こうとした場合、初期の作品18の6曲なんかを聴くことはほとんどない、聴く価値なんかないとなりがちだが・・・、

各論編の1《初期》で既に詳しく触れたように、実は素直に耳を傾ければ、こんなに素敵な曲集はないという事実に気がつき、愕然とさせられる。もちろんその直後に歓喜に変わるのだが。

後期の作品群は意外にも歌に溢れている

それと同様に、後期の未曾有の名作群は、耳も全く聞こえなくなり、孤独の淵の中で自分の内面と向かい合いながら、自分のためだけに作曲したなんて言われると、あのいかつい苦渋の表情のベートーヴェンが思い浮かび、どれだけ深刻で、暗く絶望的な音楽なんだろうと思われがちだが、実際は全くそうではない

思いの他、明るく屈託のない音楽だったり、ちゃめっけのあるチャーミングな音楽だったりする。

実はユーモアまで備わっている。ありったけ力のある人が、余裕を見せて、気楽に作ってしまったような感じさえ与える。

そして何よりも旋律美と歌に溢れている。初期の6曲よりも、名曲中の名曲と言われている中期よりも、旋律が全面に出て、歌に溢れているのには驚嘆するしかない。

ベートーヴェンの晩年の肖像画
ベートーヴェンの晩年の肖像画。

軽みの境地と溢れる歌

巨匠がたどり着いた軽みの境地というか、伸びやかな屈託のない歌がここには溢れている。とにかく良く歌う

バラエティに富んだ驚くほど多様な顔を覗かせており、聴く側の思い込みや先入観は極力排除して、ベートーヴェンの残した曲に対して純粋かつ素直に向き合ってもらう必要がある、ということだ。

本当にここにはにわかに信じられない程の多様性が秘められている。

無垢な少年の感性さえ感じ取れる。このギャップにも戸惑うばかり。

死を間近に控えた耳の聞こえない孤独な老人が作った作品とは、どうしても思えないのである。

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吉田秀和の評価

クラシック音楽ファンなら誰もがリスペクトして止まない最高の音楽評論家の吉田秀和が、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を、口を極めて絶賛している。

具体的に吉田秀和の文章を引用する。

「音楽であって、音楽を超えているものを含んでいて、しかも、『マタイ受難曲』みたいに直接宗教的でないもの(吉田秀和は西洋の音楽では、バッハの『マタイ受難曲』がいちばん偉大な音楽だと思っていることが大前提だ)。
そう、それはベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲だ。作品127以降の5曲の四重奏曲。あるいは作品132の『大フーガ』を独立した1曲に数えるとすれば、6曲の四重奏曲。これが、かつて、私には、「窮極の音楽」であった。これをきくたびに、私は、音楽には、これ以上はないと信じさせられたのだった。(中略)
私は、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲が、「私には、かつて窮極の音楽だった」と書いた。これらの音楽を、そう感じていたのは、以前からである。まだ二十歳になったかならないころから、私はこれらの作品に最大の敬意と、愛着を感じ、耽溺していたといってよい。これこそ、私にとっての「絶対の音楽」だった。」(「私の好きな曲」より)

僕は、若い頃から吉田秀和の数々の音楽評論を読んでクラシック音楽に親しんできたので、意識しなくても、望むと望まざるとに拘らず、どうしても吉田秀和の強い影響を受け、それはもう多分、僕の感性の一部を形成し、自分の感性だと思い込んでいるものが、実は吉田秀和の受け売りで、その影響を受けただけに過ぎない、なんてことがあるんじゃないかと、最近とみに不安に駆られることがある。

これを僕は吉田秀和による呪縛と言っているのだが、吉田秀和から呪縛を受けることそのものが非常に居心地のいいものだったりするだけに、ちょっと始末に置けない。

自分の耳と感性だけを信じて音楽を聴くことの困難さ、を思い知らされている今日この頃である。

吉田秀和の呪縛を受けていないのか?

本題に入る。

ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲があまりにも素晴らしい音楽だというのは、もしかしたら吉田秀和の影響をモロに受けた、いわば呪縛ではないかと。

僕も全く同感なのだが、それが吉田秀和の呪縛、いや催眠術にかかっているせいじゃないのか、と一瞬不安がよぎるのである。 

だが、こんなふうに多少自分の感性を疑いながらも、やっぱりこれらの後期の作品が素晴らしいことは、間違いないと断言できる。

どうしてこんなに歌に溢れているのか?

ここに聴こえてくる音楽が、ベートーヴェンの生涯の予定調和とはかなり異なるものである点が、引っかかる。

もっと暗く、絶望的で、寂寥感に満ちたものならいいのだが、実はそうではない。

若々しくて、明るい歌に溢れている。どうしたことなのか?

もっと悲惨な孤独の淵に立っていたのではなかったのか?

聴くほどにその謎は深まってくる。僕はベートーヴェンを誤解していたのだろうか?良く分からないのである。

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ベートーヴェンの変貌とロマン派音楽の誕生

ベートーヴェンはウィーンの先輩であるハイドンとモーツァルトという2人の天才の後を受けて「古典派」音楽を完成させたのだが、ベートーヴェンという作曲家は年齢と共に成長していく作曲家であり、56年の生涯を通じて、その作風はドンドン変化し、変貌を遂げ、成長していった。

進歩した、進化を遂げたと評価することの是非はともかく、ベートーヴェンという個人の作曲家としてのスキルと芸術性、音楽性が年齢と共に発展、充実し、深まっていったことは間違いない。

ベートーヴェンの初期と後期では作風も作品の深みも随分と異なっている。

ベートーヴェンの後期作品の特徴は

特に顕著な変貌は、後期である。古典派音楽を極めたベートーヴェンは、晩年に至って、いかにもベートーヴェンらしい迫力に満ちた力強い作風を変え、作品の形式や外観という形よりも、もっと個人の感情や心の動きなどの内面を、ありのままに音として表現するようになってくる。

「形」「形式」に拘らずに「内面の心の動き」を自由に表現する、言ってみればベートーヴェンの「心情告白」のような非常に個人的な感情をありのままに音にした。

これがベートーヴェンの晩年、後期作品の特徴だ。

この変化を捉えて、音楽史家や研究者は新たな潮流である「ロマン派」音楽の誕生と位置付けている。ベートーヴェンの後に続くシューベルトやシューマンが築いていくあのロマン派だ。

古典派の完成とロマン派の創成

したがってベートーヴェンの音楽史における位置付けは、古典派音楽の完成者であると同時に、新しいロマン派音楽の開拓者とされているわけだ。

そう捉えれば、ベートーヴェン後期の作品群はロマン派の音楽だと言っていいことになる。今回紹介の6曲の弦楽四重奏曲と、既に紹介済みの僕が愛して止まない後期のピアノソナタ集、特に第30番から32番の3曲などは、まさにロマン派音楽だと。

ロマン派の最大の特徴は、個人の感情をありのまま表現するということにある。形式よりも感情を重要視する。

そうなると、あれだけ拘って、最盛期のラズモフスキー四重奏曲では軒並み取り入れられていたソナタ形式は、後期には姿を消してくるのである。

こうして後期の弦楽四重奏曲は、従来までの作品と随分形を変えてくる。

それは必ずしも形の変化だけではなく、従来にも増して歌が溢れてきたり、時にユーモアまで事欠かないような曲想の変化に現れてくる。

大好きな曲ばかりだが、3曲が突出している

後期の7曲の弦楽四重奏曲は本当に魅力的な作品が揃っていて、吉田秀和の呪縛でも何でもなく、僕はやっぱり本当に好きなのだ。

いずれも好きな曲ばかりだが、特に3つの曲にたまらない魅力を感じている。

第12番作品127と第14番作品131、そして第15番作品132の3曲である。

甲乙つけがたい名曲ばかり。

敢えて順番を付けると、最も好きな曲は14番。次にこの12番が来て、3番目は15番となるが、それぞれの差は僅差であり、どれも好きでたまらない。

そして、不思議なことに、この3曲は作風がそれぞれ大きく異なっている

3曲が一体になってベートーヴェンの晩年の偉大なる音楽宇宙を形成している、そう思えてならない。

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第12番変ホ長調 Op.127

大好きな曲。本当に素晴らしい。

先ずは冒頭の第1楽章。曲のオープニングだ。その最初の一音から直ぐに強く惹きつけられてしまう。

4つの楽器が同じ音形で動く言ってみればユニゾンだ。これが正しく決然とこれからの生き様を高らかに宣言するかのように力強く、しかも希望に溢れた響きなのである。

これは何と素敵で、魅力的だろう。

僕はこのオープニングを聴く度に、深く打たれてしまう。心の中の一番深い部分にこの響きが届き、その都度、感動を新たにする。

これからどんな作曲家も足を踏み入れたことのない、過去に例のない未曽有の高み、深淵の極致の音楽を創造していくという重い決断を自らに言い聞かせるかのような響きなのである。 

その心に真っ直ぐに届いてくるユニゾンによる前向きな決意表明の後、第一ヴァイオリンが朗々と小気味良い歌を歌い始める。そして音楽はゆったりとした大きな流れのように柔らかく、どこまでも優しく流れていく。この音の流れに身を任すのは非常に気持ちがいい。

本来、深刻な険しい音楽が流れてきてもいいはずなのに、ここに響き渡るのは、優しくて包容力のある大らかな音楽。

これこそが絶対的な高みに到達した孤高の音楽と言われるベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲の真相だ。

驚くほど明るくて歌に溢れている

第2楽章はベートーヴェンが弦楽四重奏曲でしばしばみせる、冒頭の曖昧模糊とした怪しげな響きで始まるが、その中からヴァイオリンがゆったりとした息の長いメロディを歌い始める。本当に長い旋律ライン。それがフーガとなって別の楽器に歌い継がれている。

驚くほどの息の長さ。実にしっとりとした旋律美で彩られる。

これは変奏曲。ベートーヴェンは若い頃から変奏曲が得意だったのだが、ここではベートーヴェン屈指の傑出した変奏曲を味わえる。

取り急ぎ、12番作品127は第1楽章と第2楽章を味わってもらえればいい。もちろん第3楽章もフィナーレの第4楽章も素晴らしい音楽なのだが。

第12番までは全て4楽章で統一

各論編の1で、初期の作品18を紹介した際に、6曲全てが4楽章から成り立っていることを、まだ若くて慎重な青年作曲家であり、それがいじらしいなどと書いたが、実はその後の最盛期のラズモフスキー四重奏曲の3曲、ハープ、セリオーソと中期の名作群も全て4楽章で統一されている。僕の評価は不適切だったかもしれない。

ベートーヴェンが弦楽四重奏曲の楽章の数など形に大幅な改良、変革を推し進めるのは後期に入ってから、ということは第九も作曲し終えた死を間近に控えた最後の最後になってからなのだ。

これが後期の特徴にもなっているので注目してほしい。

後期の最初の曲である第12番では、まだ4楽章に拘っているベートーヴェンであったが、この後はドンドン形が壊れてくる、いや、意識して形を破壊して行ったのである。

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第13番変ロ長調 Op.130

先ずは楽章の数。何と6楽章まである。いきなり姿を表した全6楽章という形式。これが注目の第一。

それだけではない。独立した曲としてカウントされている「大フーガ」作品133は、実はこの第13番の最後を飾るものとして作られていた。つまり第7楽章というわけだ。それでは、あまりにも曲全体が長くなり過ぎるということで、周囲のアドバイスも聞き入れて、この「大フーガ」部分は独立した曲となった。

ちなみに次の第15番作品131、これは僕が最も愛して止まないベートーヴェンの弦楽四重奏曲なのだが、この曲は何と全7楽章で構成されている。驚嘆すべき事実。

聴きどころは満載だが

第13番の作品130は、僕にはちょっとまだ良く分からない曲だ。聴きどころは満載なのだが。

第1楽章の冒頭は素晴らしい。またお得意の曖昧模糊とした何とも神妙な響きで始まる。少し屈折した陰鬱な響きだ。それが直ぐに変化、明と暗の交錯が著しい。ゆっくりとヒタヒタと心に染み渡ってくる音が、時に激しくなり、時にまた引いて、音色とテンポが万華鏡のように細かく変わっていく。

3楽章は少しユーモアを湛えた音楽。陽気で楽しい。遊び心が充満している。楽しくおしゃべりしているかのような屈託のない音楽。

4楽章は少し忘れ難い愛くるしさを感じさせる音楽。

5楽章は「カヴァティーナ」。非常に美しい旋律が奏でられるアリア。チェロやヴィオラなど低音の渋い響きが切々と心に迫ってくる。

これは洗練された、響きはもうすっかり近代だ。

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第14番嬰ハ短調 Op.131

遂に第14番の作品131まできた。これは僕が最も気に入っているベートーヴェンの弦楽四重奏曲だ。ベートーヴェンの全ての作品の中でも、ベスト5に入ってくる大のお気に入りである。 

7つの楽章を休みなしで演奏する指示

出版順によって14番とされているが、15番目に作曲された。楽章が何と7つもあることは既に書いたとおりである。 

そしてもう一つ、特筆すべきことは、7つも楽章があり、全体では40分近くもかかる大曲なのに、何とベートーヴェンはこの曲を休みなしで連続して演奏するように指示している。その真意はどこにあったのだろうか?

ひときわ芸術性の高い、魂の籠った作品

これはどこまでも深い音楽だ。

第1楽章が最高。ベートーヴェンの全作品の中でも最も素晴らしい音楽と断言したい。この深さ、この深淵さ。寂寥に溢れ、どこまでも陰影に富んだ曲に、一聴して忽ち魂を奪われてしまう。
自由な形式のフーガ。ソナタ形式ではないことに注目だ。

初めに歌われる第1ヴァイオリンの陰影に満ちた深淵さの極致を行くようなメロディが、フーガによって次々と他の楽器に引き継がれていくのだが、その複雑に絡み合う複数の旋律がそれぞれ深刻な歌を競い合うように響き渡るに至って、遥か彼方の宇宙の果てまで連れ出されるような、あるいは逆に底知れぬ淵の中を彷徨うような、得体のしれない深みに魂を揺さぶられ続けることになる。

後にあのヴァーグナーはこの楽章を「音をもって表現しうる最も悲痛なるもの」と評したことは有名だが、悲痛というのとは少し違う。悲痛なのではなく、とめどなく深い漆黒の世界というべきだろうか。どれだけ聴いても解き明かすことのできない音楽の究極の神秘というしかない。

第4楽章はビックリしてしまうような素晴らしい歌。本当に伸びやかで息の長い優しい歌だ。カンタービレ。かつてベートーヴェンがこんなに優しくて、透明感に満ち溢れた優しい歌をどこで作っていたか、思い出せないほど。聴いていて本当に心が和んでくる。こんな優しい歌に身を委ねることのできる幸福感を感じさせる。

第5楽章の快活さ。それでいて伸びやかな歌にも事欠かない。そればかりかユーモアまで感じられる楽しい曲だ。

第6楽章はまた深い思索の音楽に戻ってくる。第1楽章に近い雰囲気。だが、今度はもっと分かりやすく、親しみやすいメロディラインなのである。

最終の第7楽章はアレグロでテンポも速く、かなり力強い、躍動感に満ち溢れた曲。最盛期の中期の力強さが戻ってきたかのようだ。

それでいて決して力だけで強引に引きずり回すような感じはなく、やっぱりどこかに深い優しさと慈しみがあるのが素晴らしい。

誰の依頼も受けずに自分のために作曲

僕は総論編で、ミサ・ソレムニスと第九を作り上げた後、ベートーヴェンは孤独の淵の中で自分のためだけに弦楽四重奏曲を作り続けたと書いたが、それは精神的なことを言っただけであり、これらの最晩年の弦楽四重奏曲が、依頼を受けて作曲したことを否定するわけではないので、注意してほしい。

12番、第13番、第15番とちゃんと依頼を受けて作曲した後、この14番は本当に依頼を受けたわけではなく、自発的に作曲されたのだった。

文字通りベートーヴェンが自分のためだけに書いた曲。一聴するなり、いかにもベートーヴェン自身の内側からの欲求によって作られた、他の曲とは比べることのできない、ひときわ芸術性の高い、魂の籠った作品に仕上がっていることが分かる。

出来上がりにもベートーヴェン自身、納得できる会心の作品だったようだ。

興味深いエピソードの数々

この曲を巡っては、いくつか興味深いエピソードが残されている。

この曲を完成させた際、ベートーヴェン自身が「ありがたいことに、創造力は昔よりもそんなに衰えていないよ」と友人に語ったという。

またベートーヴェンを崇拝していたシューベルトは、この作品を聴いて「この後でわれわれに何が書けるというのだ?」と述べたことは良く知られている。

シューベルトのこの感想は本当に素晴らしい。天才だけが天才の本質を見抜くことができる。

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第15番イ短調 Op.132

この曲も昔から非常に気に入っている。3番目に好きな弦楽四重奏曲となる。

全体は5楽章の編成だが、時間的には45分近くかかるベートーヴェンの最も長い弦楽四重奏曲である。

この曲も第1楽章が最高だ。歌に溢れた素晴らしい音楽。感動的な歌。神秘的でありながら、心が浮き立つようなメロディにも事欠かない。

第2楽章も上機嫌に良く歌う。

第3楽章は少々変わった曲だ。音の数が非常に少なく、低音を中心に静かにゆったりと、噛みしめるようにどこまでもゆっくりと曲が進行していく。やがて急にクレッシェンドしていかにも明るい健康的なメロディが突然、産声を上げるかのように響き渡る。後はまさに幸福感が滲み出た歌が歌われる。これが有名な「病の癒えたる者の神への感謝の歌」である。

これはベートーヴェンの実体験だという。非常にしみじみとした分かりやすい、ある意味で感動的な歌であり、音楽である。リディア旋法という古い旋律が用いられている。
研ぎ澄まされた透明感が秀逸。

続く第4楽章も似たような感じの明るい屈託のない音楽。聴いていてこちらの身体が動き出し、ウキウキしてしまう。途中から少し陰りが出てくるのだが、それほど深刻には決してならない。

ある意味で屈託のないこのような明るさに満ちた歌は、どうしてもベートーヴェンの孤独な晩年にそぐわない気がしてしまうのだが、これこそがベートーヴェンが行き着いた「軽み」の境地というしかない。

第5楽章も実に良く歌う。小気味いい位だ。

「大フーガ」変ロ長調 Op.133

第13番の作品130の一部として作曲していたことは書いたとおり。周囲の意見を取り入れて、13番から切り離し、独立した曲とした。

文字通り大フーガである。「フーガ」というのは対位法の最も大掛かりな方式で、これもソナタ形式同様に詳しく説明するとキリがない.。

ごく簡単に説明すると、一つのメロディ(旋律)が様々なバリエーションを加えながら、他の声部(楽器)に複雑に受け継がれていく対位法の極致であり、あのバッハが最も得意とした複雑な作曲技法である。

ベートーヴェンも様々な弦楽四重奏曲の中に、頻繁にフーガを取り入れているが、どちらかというと小振りなものが多く、この作品133は非常に大規模な複雑にして精緻を極めたフーガであり、ベートーヴェンの卓越した作曲技法を存分に堪能することができる。

フーガではその繰り返し登場してくる旋律(メロディ)そのものが魅力的かどうかで好き嫌いが分かれてしまう。この大フーガのメロディは、かなりリズムのきつい刺々しいものなので、僕は正直言ってあまり好きにはなれない。後期の作品の中にあって、珍しく力で押してくるタイプの曲だ。

そうは言っても、いかにもベートーヴェンらしい圧倒的な迫力とずば抜けた構成感を誇る大伽藍のような大作である。じっくりと聴いてもらえれば、ベートーヴェンの偉大さが良く分かるに違いない。

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第16番ヘ長調 Op.135

ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲にして、実質的に全ての作品を含めての最後の創作だ。

この曲を作曲した5カ月後にベートーヴェンは生涯を閉じることになる。

その最後の弦楽四重奏曲は、意外にもこじんまりとした伝統的な形式で作られている。4楽章編成に戻り、時間的にも短く、非常にコンパクトにまとまっている。

だが、この曲に盛り込まれた音楽は濃密で非常に充実した名曲である。後期の類い稀な至高の傑作群の中にあって少し影の薄い存在だが、これはこれで素晴らしい。

静謐を極める第3楽章が絶品だ。非常に素敵な音楽。

一音一音を慈しみ、ゆっくりと音と音楽を確かめるような慎重な音の運びに、聴く側の耳も心も引き付けられる。

これはベートーヴェンの辞世の句(音楽)かもしれない。実際にこれがベートーヴェン最後の曲なのだ。

そして最後の最後の第4楽章。これがまた強烈だ。音楽との決別。音との別れとしか思えない身を切られるような響きが聴くものに迫ってくる。

こうしてベートーヴェンは、この最後の弦楽四重奏曲を作曲した5カ月後に、56歳で亡くなった。合掌。

ベートーヴェンのデスマスク
ベートーヴェンのデスマスク。

ありとあらゆる弦楽四重奏団のライフワーク

以上、ベートーヴェンの創作の3本柱の中でも特に重要な弦楽四重奏曲について、詳しく書いてきた。

つごう4本の記事。文字数にして4万字に近い。

やっぱりベートーヴェンの弦楽四重奏曲は聴く人を惹きつけて止まないのである。

それは聴く人だけではなく、演奏する側も一緒で、これらベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全集の録音は、ありとあらゆる弦楽四重奏団(カルテット)にとって、究極の目標であり、ライフワークとなる。

そもそもカルテットという4人組の演奏団体が、世界にひしめき合っていること、それ自体がベートーヴェンの偉大な17曲があったからと言って過言ではない。

ベートーヴェンの30歳から死の5ヵ月前まで継続して作り続けられた弦楽四重奏があったから、それを演奏するために、弦楽器奏者がカルテットを創設し、その全集の録音をライフワークに設定したのである。

このことだけをとってもベートーヴェンの功績は偉大だと思う。

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ライフワークだけに名盤がひしめく

こうしてベートーヴェンの弦楽四重奏曲は全集の形で全曲がまとめて録音されることが多く、ライフワークとしてありとあらゆるカルテットが魂を込めて、自分のたちの持てる力と芸術性の全てを出し切って録音に臨むので、名盤ばかりがひしめくことになる。

言ってみれば全てが名盤。それでいて、弦楽器という自身で音そのものを生み出す楽器だけによる純粋な響きとなるだけに、カルテットによる響きとそこに展開される音楽、表現は随分と違いが滲み出ることになる。

音楽の捉え方、芸術感、目指すところの音楽感、そんな違いが如実に音となって響いてくることになる。

したがって、名盤ばかりとはいっても、随分と響きも表現も異なるので、これだけの名曲の高嶺、どうか複数のカルテットによる演奏を味わっていただきたいと思う。

ブログの最後に取り上げている3団体の演奏はいずれも甲乙つけがたい素晴らしい演奏ばかりなので、ここから先ずはチョイスしてもらえば間違いない。

アマデウス弦楽四重奏団の写真
アマデウス弦楽四重奏団

 

どのカルテットの演奏を聴いても、ベートーヴェンの音楽の素晴らし差を味わうことができるが、ブルーレイオーディオを無視して、普通のCDで聴くのなら、アルバン・ベルク弦楽四重奏団の全集が最高のお薦めである。この天下一の名盤が、輸入盤だが信じられない価格で入手できる。是非とも聴いていただきたいものだ。

ベートーヴェンの全17曲の弦楽四重奏曲。これを味わえるのは、通のクラシック音楽ファンだけに与えられた最高の楽しみである。

弦楽四重奏曲の世界は少し敷居が高いかもしれないが、どうか気軽に聴いてみてほしい。本当に美しく、感動的な音楽で満ち溢れている。

アマデウス弦楽四重奏団の写真
アマデウス弦楽四重奏団

 

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