【中編】より
目 次
力を持っているのに出し切れない苦悩と葛藤
「無能の人」に描かれた「おれ」の自堕落ぶりは甚だしい。本当にやる気がなくて、バカな空想ばかりしていて、情けないと言ったらありゃしない。
でも、「おれ」は夢を捨ててしまっているわけでもない。
非常に錯綜している。こう見えて、ただのダメ人間でもない。誇り高いプライドも持ち合わせている。
中島敦の「山月記」で虎になってしまった主人公の李徴が語る「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」と同じような葛藤かもしれない。
とにかくこのままではダメ。何とかちゃんとして、漫画家として以前のように傑作を描いて、自分自身へはもちろん、期待してくれている妻にも子供にも安心させたいのに、踏み出し切れない、いつだって怠惰な方向に流されてしまう。
それは病的なまでに、無気力で情けない姿である。頭の中では何とかしなきゃと思っているのに、どうしても前向きになれず、自堕落の方に流されていってしまう。
そんな苦悩と葛藤が痛い程に伝わってくる。
激しい自己嫌悪と虚無感。言葉にできない底知れない虚しさが全編を覆い尽くす。
さりげない簡単な絵と表情に、苦悩と葛藤の深さが滲み出す。心の中を冷たい風が吹き抜けるような虚無感とやり切れなさに、読んでいる我々も胸を締め付けられる。




スポンサーリンク
僕自身とは真逆なのだが、深い共感が
自分で言うのもどうかと思うが、ここで描かれる主人公(もちろん作者のつげ義春自身であることは言うまでもない)と僕とは、生き様が全く違うどころか、ほぼ真逆と言っていいキャラクターなのだが、不思議なくらい、「おれ」の心情が良く分かり、共感できる。
我ながら不思議でたまらないのだが、本当に良く理解できる。
僕自身の心の奥底に、こんなどうしようもなく自堕落で、やる気のない生き様に憧れる側面があるのだろうか?
何事にも前向きで、アグレッシブな自分とは全く異なる主人公にそっと寄り添いたくなってしまう、この得体の知れない感覚は、一体なんなのだろうか。
僕は本当にこの「無能の人」という漫画が大好きで、折に触れて取り出しては、繰り返し読み返している。この漫画がなくなったら、僕の中の最も重要な部分がもぎ取られてしまうような気さえする。
どうしてこんなに好きなのか、自分にとってのかけがえのない作品なのか、わけが分からないが、本当に好きでたまらない。
スポンサーリンク
あの一条さゆりの解説が出色
一世を風靡したストリッパーにしてポルノ女優だったあの一条さゆり。
公然猥褻罪で何度も検挙を繰り返した伝説の女優が、ちくま文庫の巻末に(ハードカバーの全集より再録)、非常に興味深い解説を書いているので、一部を抜粋しておきたい。
ダメ男に寄り添う女性心理の本質を突かれた感じで、なるほど、そういうものかと深い感銘を受けた。
少し長くなるが一部転載する。
スポンサーリンク
「解説 食べさせてあげたい人」
『(前略)つげ義春氏の作品の方は、ますます、情けなくなっていってくれて、いまだに、わたしを悩ませてくれる。特に、「無能の人」などに到っては、
「もう、どうしてえ?」
とため息をつくしかない。
男のわがまま、理不尽さ、情けなさ、弱さ‥‥。おとこのだめさかげんを全て包み隠さすことなく描かれていて、硬派ぶった男だったら、
「お前はそんなことで良いのか!」
と、一言怒鳴りたくなる程の、情けない人間像だろう。
しかし、そんな情けない男のことを、
「自分の弱さを正直に表現出来るのって、やっぱり内面の強さがあるからだし、才能のある人だから、弱さも魅力的に見えてくる。強いだけの男よりも、ずっと色っぽいわ」
などと感じ取って、可愛く思ってしまう女は、わたしだけではないだろう。
「男は、絶対に三高じゃなきゃダメ」
などと言い切ってしまう女でない限り、女は誰でも、男の挫折に、少しは愛おしさを感じると思う。
いったん可愛いと思ってしまったら最後。「可愛い」という感情は、とても単純なように見えて、実はやっかいなしろものだから、とらわれてしまったら、もう離れられなくなってしまう。
つげ義春氏の「無能の人」やその周辺の作品は、主人公に思いっきりの情けなさや、ダメさかげんの中に、山盛りの可愛さがあふれている。だから、とってもとってもみじめな話のはずなのに、妙に色っぽく感じる。
そういうタイプの男にひかれがちな女にとっては、とても参考になるし、なぐさめになるはずだ。少なくともわたしは、読んだ後はいつも救われた気分になっている。
(後略)』
これは大変な読みものだった。一条さゆりの言葉一つひとつに頷いてしまう。かなり深い男女関係論。一条さゆりがこんな文章を書くとは全然知らなかった。脱帽するしかない。
スポンサーリンク
読む程に味わいを増す真の傑作
つげ義春の「無能の人」は、本当に素晴らしい傑作だ。つげ義春の名を不滅にしている「ねじ式」や「紅い花」、「ゲンセンカン主人」、「李さん一家」なんかよりも、僕は遥かに好きだ。
このやる気のなさ、自虐、どうしようもない卑屈な生き方、情けない弱さ。最低最悪の男。
「おい、しっかりしろよ!」「いい加減に自分に甘えていないで目を覚ませ!」「自分への憐憫は今すぐ止めろ!」
あの奥さんならずとも、僕だってそう声をかけたくなる。激しく詰め寄ってやりたくなる。
だが、主人公の気持ちも何だか非常に共感できて、そっと隣りに、静かに寄り添いたくなってしまう。
不思議な作品。エロティックな描写にも事欠かないし、大人にしか分からない秘密の世界もある。
一方で、これだけ落ちぶれても、凛として曲げない正義感とプライドもあって、そう一筋縄ではいかないものがある。実に錯綜した深い世界観でもある。
スポンサーリンク
一筋縄ではいかない深遠な世界感
そのあたりは終章(第6話)の「蒸発」に如実に示される。ここに描かれる漂流俳人井口の生涯が圧巻だ。
ダメ男のダメさぶりをこれでもか!と描いているように見えて。実は思っているよりも遥かに深くて複雑な世界観。
漫画を芸術の高み、第一級の文学作品に勝るとも劣らない世界に押し上げたつげ義春による、いかにもつげ義春作品とは異なるもっと分かり易いストーリー漫画であるが、そうは言っても、そこはつげ義春。
やっぱり一筋縄ではいかない深遠な世界がどこまでも豊かに広がっている。


スポンサーリンク
つげ義春ワールドを体験してほしい
これは芸術漫画というか、少なくとも超一級の文学作品であることは間違いない。
読む程に味わいを増す真の傑作だ。
つげ義春をまだ読んだことがないという人。今からでも遅いなんてことは全くない。
一人でも多くの漫画ファン、文学ファン、芸術ファンに読んでいただき、つげ義春ワールドを体験してほしい。深い感動と救済をお約束する。
☟ 興味を持たれた方は、どうかこちらからご購入ください。
現在は2種類の文庫分で読むことができる。新潮文庫は多少割高であるが、「無能の人」の他にも、6編が収録されている。
一方のちくま文庫の方は、「無能の人」の他に4編が収録されている。ちなみにこの4編は新潮文庫の6編と完全に重複されているので、新潮文庫の方がお得感があるのでは(笑)。
但し、本文中でも書いたように、ちくま文庫の方には、つげ義春自身による各話ごとの解説が載っているので、それを読みたい人は、ちくま文庫を購入してもらうことになる。
なお、かつて2種類あった大判(ハードカバー)は現在は廃刊となっており、入手できない。
①935円(税込)。送料無料。新潮文庫版。
「無能の人(全6話)」の他に6編収録された400ページ。
無能の人・日の戯れ (新潮文庫 新潮文庫) [ つげ 義春 ]
②836円(税込)。送料無料。ちくま文庫版。
「無能の人(全6話)」の他に4編収録された345ページ。つげ義春自身の解説付き。