ベートーヴェンの交響曲の各論編の続き。前回の【各論編4】を最終回として修了する予定であったが、大幅に長くなり、最後に第9番「合唱」だけを独立して取り上げることとなった。

ベートーヴェンの交響曲の全容の話しはもう繰り返さない。今回は最終曲の第9番「合唱」だけの紹介である。

第9番ニ短調「合唱」Op.125 1824年(53歳) 約72分

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第9番ニ短調「合唱」Op.125

遂に第9番「合唱」まできた。この曲のことを書くのは少し気が重い。

何度も書いてきたが、僕はこの曲が苦手である。いや、苦手どころではなく、ハッキリ言って好きじゃないのだ。

実は、僕のこの曲との出会いは古く、最も早い時期からじっくりと聴いてきた曲なのである。

我が人生最初のクラシックLPはワルター指揮の「運命」「ジュピター」「未完成」「新世界」だったことは、繰り返し書いてきた。

その翌年に「英雄」、更にその翌年が第9番「合唱」だったので、多分、小学6年生か、遅くとも中学1年生の時にレコードを買ってもらって、かなり聴き込んだ。

その時の演奏がカラヤン指揮のベルリン・フィルだった。何の知識も持ち合わせなかった田舎のクラシック好き少年は、「帝王カラヤン」の人気だけに惹かれて、このLPを買ってもらったんだと思う。

それがダメだったのかも知れない。

何度も何度も繰り返し聴いて、その頃はそれなりに気に入っていたのかもしれないが、ほとんど夢中になった記憶はない。

何だか妙に深刻で仰々しく、心が浮き立つこともなく、この曲を聴いても幸せな気分になれなかった。

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交響曲第9番「合唱」は「第九」

この曲を語るに当たって先ず最初にハッキリさせておきたいのは、この作品は交響曲第9番「合唱」ではなく、ズバリ「第九」と表記されなければならないこと。

実際に、最近ではそれが定着しているように思えるが、これだけはどうしても「第九」でなければダメだ。

僕が子供の時に買ってもらったカラヤンのLPの帯には、第9番「合唱」となっていたことを鮮明に覚えているが、そんな風に呼ばれることは少数派だったと思う。

中には「合唱付き」などというタイトルも見かけるが、これはいかがなものかと思ってしまう。

子供のお菓子の「おまけ付き」とか、少年漫画誌の「付録付き」でもあるまいし、「合唱付き」とは、あまりにもお粗末ではないか。あの第4楽章の合唱部分は付録でもなければ、もちろんおまけでもない。

もう変なタイトルはやめて、第7番のように愛称抜きにしてほしい。元々ベートーヴェンは何のタイトルも愛称も付けていなかったのだから。

だから敢えて潔く「第九」でいい。9を漢数字の九と表記することで、他との差別化を図ればいい。

どうして「第九」と表記すべきなのか

漢数字の九を用いるのは、実はもっと本質的な理由がある。それはこの曲が、何故か大晦日を中心に年末に演奏し、聴くことが習わしとして、ある意味で「文化」として定着しているからだ。それも何と日本だけに。

この日本独自の文化にも困ってしまうが、クラシック音楽に人々が関心を持ってもらう絶好の機会ではあるので、ムキになって否定するつもりもない。

日本ではひと際ベートーヴェンの第9番が愛されていて、年末になると恒例の第九合戦全国津々浦々で第九のコンサートが開催される。その際に表記されるのは「第九」なのである。「第九」は日本ならでは、完全に定着した表記となって、今日に繋がっている。

実は、僕もその年末に何度も歌ってきた。

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僕の合唱歴は

僕は高校時代から本格的に合唱を始め、アマチュアながら、合唱団の指揮者としてずっと活動してきた。

今はコロナ禍ということもあり、しかも僕が医療従事者ということもあって、泣く泣く合唱活動も指揮者としての取組みも断念しているが、コロナ前にはかなり精力的に合唱活動を繰り広げ、自分が創設した合唱団の指揮者として活動する一方で、日本のトップクラスの合唱団に所属して、歌ってきた。

「晋友会」と「耕友会」というトップレベルの合唱団

そのトップクラスの合唱団というのは、「晋友会」と「耕友会」のことである。

「晋友会」も「耕友会」も、優れた合唱指導者として関東を中心に活動している著名な合唱指揮者が指導する複数の合唱団の総称である。

それらの合唱団が、主にオーケストラを伴う合唱作品、いや、これは表現が逆。大作曲家のオーケストラ作品に合唱が必要とされている曲を演奏する際に、その合唱指揮者が指導者として関わる複数の合唱団の選り抜きのメンバーを集めて活動する際に用いられる名称と考えてもらえればいい。

「晋友会」合唱指揮者の故・関屋晋の合唱団。「耕友会」合唱指揮者にして優れた作曲家でもある松下耕の合唱団である。

僕は30代後半から50代にかけて、これらの合唱団のメンバーとして、歌い手としても精力的に活動してきた。

他にも栗山文昭という傑出した合唱指揮者の「栗友会」(僕はここが一番のお気に入りで、何とか入団が叶った直後に地方に転勤となり、実質的な活動ができなかったという悲しい経緯がある)などもある。

どこもかしこも、その合唱指揮者の名前なり名字なりの一字を持ってきて、その指揮者の友の会という意味で「○友会」という名称にしているのが、おもしろいというか、ちょっとどうかなと思わなくもない(笑)。みんな右に倣えとばかり。合唱界というのも随分とモノクロームで、狭い世界なのである。

「晋友会」も「耕友会」も、基本的には主に合唱を伴うオーケストラ作品に、その合唱を受け持つ団体として活動するわけだが、その最も代表的な作品がベートーヴェンの「第九」というわけだ。

第九の合唱部分でどの合唱団でも用いる楽譜の表紙の写真。
第九の合唱部分でどの合唱団でも用いる楽譜の表紙。懐かしい。

 

他にもモーツァルトやヴェルディやフォーレなどの「レクイエム」、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」など枚挙にいとまがないが、ベートーヴェンにはもう一つの大曲「ミサ・ソレムニス」もある。

言ってみれば、古今のいわゆる宗教曲と呼ばれている大曲を演奏する際に引っ張り出されるわけだ。もちろん「第九」など、必ずしも宗教曲には限らないのだが。

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「プロの合唱指揮者」というおかしな存在

どうしてこういうシステムが求められるかというと、合唱を伴うオーケストラの大曲は、正式な指揮者でなければ振れないからである。つまり、第九でも他の宗教曲でもここで掲げたような曲は、オーケストラを指揮するちゃんとした指揮者でなければ指揮できないという決定的な理由がある。

指揮者には「指揮者」と「合唱指揮者」の2種類が存在。合唱指揮者の方はオーケストラを指揮することはできず、「指揮者」だけがオーケストラを指揮できる大前提があるわけだ。

関屋晋も松下耕も、栗山文昭も合唱指揮者であって、オーケストラは指揮しないし、そもそも技術的にできない。厳密に言うと松下耕は音大の出身で、たまにオーケストラを指揮することがある。だが、それも自作に限ってであり、交響曲を指揮するようなことは決してない。

限りなくアマチュアに近いにも拘わらず、「合唱指揮者」がプロとして飯を食っている。

合唱指揮者がプロとして飯を食っていけるのは、世界でもほぼ日本だけ、しかも関東周辺に限られている。本当にこの首都圏というか、関東は不思議な地域で、合唱団の指導をするだけで飯を食っている「プロの合唱指揮者」が存在するのである。

「合唱指揮者」という職業が成り立っている。僕もその合唱指揮者の端くれだが、もちろんアマチュアである。合唱を指導するだけで飯が食えることに違和感がある。合唱団の指導はアマチュアであるべきだ、というのが僕の揺るがぬ信条である。

合唱団のメンバー、つまり歌う側もプロならば、それを指導する合唱指揮者もプロで問題はないのだが、日本全体を見渡しても、プロの合唱団というのは本当に数える程しかない。合唱団は職業として、残念ながら成り立たない。

日本の合唱団のレベルは世界と比べても少しも見劣りしない非常に高いものだが、それらの合唱団は、ほとんどがアマチュアである。

そのアマチュアの合唱団の指導をする、合唱団しか振ることができない中途半端な指揮者が、合唱指揮者という妙な名称を与えられて、プロとして活動している業界に、違和感がある。

特別に才能に恵まれたホンの数人の天才ならまだしも、首都圏には合唱指揮者が、実は数え切れないほどいるのである。

自分が苦労して設立した合唱団ならまだ分かるが、アマチュアの合唱団から指揮の依頼を受け、次々とその数を増やして、そこからの謝礼で生活を成り立たせているわけだ。

関西にはそういう文化はない。みんなアマチュアで他に職業を持ちながら、自分が育てた合唱団を手塩にかけて、トップレベルの合唱団に育て上げてきた。僕は主に関西で合唱の薫陶を受けてきたので、余計に抵抗があるのかもしれない。

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一流オーケストラの本番を何度も経験したが

少し脱線した。

話しを元に戻す。指揮者が合唱を伴うオーケストラ作品を演奏するに当たって、合唱指揮者が準備として自分の合唱団を鍛えるというシステムのことだった。

プロの指揮者は合唱のためだけに時間をかけて練習する時間が取れない。そこで、本番のステージではプロの指揮者が指揮をするが、オーケストラと合わせるまでの合唱の練習を、その合唱指揮者が受け持って、「下振り」として練習するという仕組みである。

分かりやすく簡単に言えば、プロの指揮者が合唱の訓練を合唱指揮者に下請けに出すということに他ならない。指揮者のために合唱指揮者が下請けをする、こんなことが行われている。

「晋友会」と「耕友会」で何度もオンステを体験

そんなわけで、僕はこの「晋友会」と「耕友会」で、第九の本番のステージに何回もオンステしてきた。その回数は、正確には思い出せない。年末には決って3~5回のステージが組まれるので、それが10年程あったとすれば30~50回となるが、そこまではなかったかなと思う。少なくても30回以上は歌ってきたはずだ。

「晋友会」と「耕友会」での第九公演は、全国津々浦々で開催されるアマチュアの演奏ではなく、プロとしての活動だった。入場料は高額なコンサートで、僕のような合唱団の一歌い手に対しても、薄謝とはいうもののちゃんと出演料をもらっていたことは書いておきたい。

オーケストラは本場ヨーロッパの名門オーケストラだった。世界トップクラスという訳にはいかなかったが、立派なオーケストラが多かった。「耕友会」はロシアのオーケストラと組むことが多く、レニングラード国立歌劇場管弦楽団だった。指揮者はさすがに日本で良く知られている著名指揮者というわけにはいかず、これから売り出すであろう若手が多かった。

今にして思えば、もっとちゃんと記録を取っておくべきだったと反省しているが、その記録が見つからない。

演奏会場は錚々たる名ホールばかりが選ばれており、これは貴重な体験ととして忘れ難い。一番多かったのは新宿初台の「東京オペラシティ コンサートホール」。渋谷の「オーチャードホール」も毎年の定番。上野の「国立芸術劇場 大ホール」で歌った年もあった。「横浜みなとみらいホール」も多かった。

「晋友会」時代は、サントリーホールでも良く歌わせてもらったものだ。

部屋を探したら、耕友会時代の第九の立派なパンフレットが出てきたので掲げておきたい。

耕友会がオンステした第九のコンサートのプログラムの表紙の写真。2008年と2009年のもの。
耕友会がオンステした第九のコンサートのプログラムの表紙。2008年と2009年のもの。レニングラード国立歌劇場管弦楽団との共演だった。最初の頃はプログラムをもらえたが、やがて購入することになり、断念した記憶あり。
2年間のプログラㇺの中の第九の詳細部分の写真。
2年間のプログラㇺの中の第九の詳細部分の写真。耕友会は、The Metropolitan Chorus of Tokyoの名でオンステすることが多かった。
プログラムの中の耕友会のプロフィール部分の写真。
プログラムの中の耕友会のプロフィール部分。これを読んでもらえれば、耕友会と松下耕の全体像を理解していただけると思う。

それでも第九を好きになれなかった

こうやって数年間は年末が近づくと毎年、第九の練習と本番に追いかけられるという生活を送っていたものだが、これだけ本場ヨーロッパの一流オーケストラと第九の本番ステージを重ね、プロの活動として第一級のコンサートに加わっていたのだが、やっぱり僕の心が満たされ、歌っていて幸福感を味わうことはなかったどれだけ歌っても第九は好きになれなかったのだ。

ベートーヴェンは好きなのに、どうしても第九だけは好きになれないのか。このちょっと困った嗜好は、最後まで消えることはなく、今に至っている。

松下耕の指導は忘れられない

これだけ本格的なプロのコンサートに数え切れないほど出演しても第九を好きになれなかった僕が、この第九体験を通じて非常に興味深かったのは、下振りを担当した合唱指揮者の松下耕の第九の練習だった。これは実に興味深くおもしろかった

松下耕の第九の解説と練習の進め方は秀逸で、これは毎年の楽しみだった。松下耕は優れた合唱指揮者というに留まらず、作曲家(合唱曲に限定される)としても世界にその名を知られる才能の持ち主。優れた作曲家ならではの分析的な第九の解説は、実に興味深く、聞く度に目から鱗が落ちる思いをしたものだ。

それであの第4楽章を好きになりかけた時期もあったのだが、残念ながら定着することはなかった。耕先生、すいません。

だが、松下耕の第九の深い解釈と解説、それに基づいた曲作りは本当に貴重な音楽体験となった。

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第九の全体像(概略)

あらためてベートーヴェンの交響曲第9番、「第九」を解説していきたい。

第九は非常に規模の大きな曲で、演奏時間も長大だ。どんな指揮者の演奏でも70分以上かかるのが常である。

後のブルックナーやマーラーの巨大かつ長大な大交響曲を知っている現代の我々は、第九の70分超という時間にそれほど驚くことはないのだが、当時としては前例のない驚嘆すべき長さである。

ベートーヴェンもこの第九を作るまでの8曲の中では、一番長いもので第3番「英雄」の50分超。それよりも一気に20分以上長いというのは異例中の異例。未曽有の大作だったことが分かる。

晩年のベートーヴェンの肖像画。
ベートーヴェンの晩年の肖像画。

 

全体が4つの楽章から成るあたりは、過去の8つと構成は変わらないのだが、音楽史上、初めて第4楽章に合唱という声楽を持ち込んだことは歴史的なこと。各楽章毎の演奏時間を示すとこうなる。

第1楽章 約16分
第2楽章 約11分
第3楽章 約18分
第4楽章 約27分・・・ここに合唱が入る

合唱が入る第4楽章だけで27分以上かかるのだが、この27分という時間は、第1交響曲や第8交響曲の全体とほぼ同じ長さであり、第2交響曲や第5の「運命」より、ちょっと短いだけなのである。

そういう意味ではこの第九という作品、特に合唱を入れた第4楽章がいかに前例のない破天荒のものだったのかが、分かろうというものだ。ベートーヴェンの交響曲の中で、この第九という曲はやっぱりちょっと異端児なのである。

もう一つ、注目すべき事実は、この各論編で繰り返し書いてきた、作曲の間隔。ベートーヴェンはかなり意識して、定期的に交響曲を作曲してきた点はもっと知られていい。基本的には2年おきに作曲するペースだった。2曲の交響曲を連続して作るということも2回やっている。7番と8番を立て続けに作曲した後、何故かベートーヴェンは交響曲の作曲から離れてしまう

そして再び作曲したのが第九となる訳だが、その間に何と12年の年月が経過している点に注目してほしい。

インパクトの強い晩年のベートーヴェンの肖像画。
非常にインパクトの強いベートーヴェンの肖像画。

僕は第九は苦手だと公言している

第九でいいなと思うのは、最初の第1楽章だ。この第1楽章は悪くない。いかにも壮大な曲想で、さすがに気分が高揚させられる。

ところが第2楽章に来て、ゲンナリしてしまう。ティンパニが活躍するところは悪くないのだが、どうしても好きになれない。妙にしつこいのと、あの急き立てられる感覚。そしてこの曲がいつも僕の第九嫌いをあらためて再認識させられるきっかけとなること、要は「第九臭」プンプンというのに、尽きる。
合唱が入るメインの第4楽章と並んで「第九」のどうしても好きになれない象徴的な音楽となっている。

一転して第3楽章は非常に素晴らしい曲安らぎに満ちた神秘的な音楽で、心を洗い清められるかのよう。

第九で魅力を感じるところは第1楽章と第3楽章の2つだけ、というのが僕の率直な感想である。

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合唱が入る肝心の第4楽章がつまらない

合唱が入ってくる最後の第4楽章が、つまらない。僕にとってこんなに魅力を感じないベートーヴェンも珍しい。

あの日本では「喜びの歌」として日本語の歌詞まで付いているあのメロディ。子供の頃から魅力を感じなかった。正直に言って、子供心にも、あの大作曲家のベートーヴェンが作った割には魅力がないメロディだなと思っていた。

音楽が前に進んで行かない鬱陶しさというか、心が弾まない。

あれはベートーヴェンにしては失敗だったと思う。あれほど心のときめかないメロディは、ベートーヴェンらしくない。
子供の頃からあんなに好きだったシラーの詩に(これは中々感動的なものだ)、どうしてあんなメロディしか付けられなかったのだろうか。

第九の合唱部分の楽譜に掲載されているシラーの詩の日本語訳。
第九の合唱部分の楽譜に掲載されているシラーの詩「歓喜に寄す」の日本語訳がこれである。

年末には全国津々浦々で第九が歌われるが

日本では年末になると、雨後の筍のように日本中の津々浦々で第九が演奏され、その都度、素人合唱団員が動員され、感動を半ば強要されるが、本当にあれをいい曲だと思って歌っているのだろうか?

もしかしたら、この第九こそ人類が創った最高・絶対の音楽だという刷り込みと先入観で、そう思い込んでいるだけではないだろうか?

あるいは、内心では僕と同じように感じていても、口には出せないと恐れているのではないだろうか?

途中で、男声合唱が出てくるが、僕はあれを初めて聴いたときに、パロディによるジョークだと思った。感動とか深遠さ、崇高さなどとは無縁の音楽のように思えてしまう。

そして、合唱として歌う喜びを感じさせる部分は残念ながらほとんどない。一カ所だけ、神秘的な部分があり、あそこから二重フーガに入っていくところはさすがはベートーヴェンと思うが、後は音楽、芸術というよりは体育会系の肉体の酷使合戦。音楽性も芸術性もあったもんじゃない。

特に聴くに堪えないのは、合唱ではなく終盤のソロ(四重唱)の部分。何を歌っているのかシラーの詩は全く聞き取れず、最後は異様な高音を強いられ、まるで盛りのついた犬や猫のうめき声、いや喘ぎ声を上げているだけの下劣な音楽に聞こえてくる。

そもそも、まともに歌えている演奏を聴いたことがないし、シラーの肝心な歌詞が聞き取れないことは困る。

歌手が悪いのではなく、これは作曲したベートーヴェンに非があると言いたくなる。

僕はこの曲を聴く度に、僕が尊敬してやまないベートーヴェンは、どうしてあのシラーの詩にもっと美しく気品のある感動的な音楽を作れなかったのか不思議でならない。僕がベートーヴェンを大好きな作曲家とは呼べないのは、この第九のせいである。

大好きな曲が山のようにあるにも拘らず、好きな作曲家ベストテンから漏れてしまうのも、そのせいだ。

合唱の美しさと歌う生理を理解できなかった大作曲家

ベートーヴェンは徹頭徹尾、頭の先から足のつま先まで器楽的な発想で作曲した人で、合唱の美しさの本質も、歌うことの喜びも理解できなかったのかもしれない。

僕はこの曲には合唱曲としての魅力も感動も、ほとんど見い出せない。実際に歌ってみても、本当に歌いにくくて歌いにくくて、閉口させられた。

どれだけ歌い込んでもメロディや旋律が身体の中に入ってこない。ベートーヴェンという人は、歌う人の生理がそもそも分かっていなかったのかもしれない。

ベートーヴェンには第九がなくても、古今東西の最高の作曲家の一人であることは微動だにしない。だから、もういい加減、第九を人類が作曲した最高の音楽と祭り上げることは、止めてほしい。

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キューブリックの「時計じかけのオレンジ」の衝撃

「第九」絡みで一番おもしろかったのは、迷うことなく史上最高の天才映画監督のスタンリー・キューブリックの「時計じかけのオレンジ」だ。これは凄い。

キューブリックの「時計じかけのオレンジ」は、非常に有名なので、ご存知の方が多いと思われるが簡単に紹介しよう。

近未来のロンドン、少年たちが暴力とSEX(レイプ)にだけ喜びを見出して、やりたい放題に暴れまわるとんでもない世界を、一切の妥協なしで作り上げたウルトラバイオレンスの物語。

その衝撃的な映像は観たものにトラウマを残す程だが、その凶暴で手の付けられない悪魔のような少年アレックスが、暴力とSEXともう一つだけ好きでたまらなかったものがあった。それがベートーヴェンというわけだ。特に第九に夢中になって、第九の音楽に恍惚となる。

この不良どもを政治的に利用しようとする権力者が、暴力とSEXを二度とできなくなる治療法を開発し、逮捕されたリーダーのアレックスを実験台にするのだが、手違いがあって、暴力とSEXだけではなく、第九も受け入れられないように洗脳されてしまう。

そこから想像を絶する事態が展開される。その描写が凄まじい。あれだけ好きだったベートーヴェンと第九を、ちょっとでも耳にすると死んでしまいたくなるという前代未聞のストーリー展開。

アンソニー・バージェスの原作も凄いのだが、とにかくキューブリックの演出と表現方法が過激にして斬新。その衝撃的な映像と音楽の使い方が空前絶後で、ちょっと信じられない驚異的な映画なのだが、この映画の隠れた主人公は第九である。

第九をこんなふうに使うという発想が到底考え付かず、あっけに取られる他はない。

第九嫌いをも唸らせる絶妙な第九の使い方に、脱帽するしかなかった。

もし「時計じかけのオレンジ」を未だ観たことがないという読者がいるなら、この機会に是非とも観ていただきたい。映画史に燦然と輝く名作にして、大問題作である。

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ベートーヴェンの全交響曲の紹介が終了

全てのベートーヴェンの交響曲の紹介が終わった。最後の第9番を貶さなければならないのは辛かったが、仕方がない。

僕は第九を好きにはなれないが、それが少数派であることはもちろんだ。一般的には人類が遺した最高の音楽・芸術と讃えられている。特に印象的なのは、あの1989年の東欧革命の際のことだ。ベルリンの壁が崩壊した歴史的な大事件の後で、あのベルリンの地でバーンスタインが第九を演奏し、人類の叡智と勝利を高らかに歌い上げて、世界中を感動させたことは間違いない。

第九はそういう曲である。音楽的には不満があるが、あの感動的なシラーの詩に、ベートーヴェンがあの時代にあの曲を作曲した意義はとてつもなく大きい。まさに人類史に残る歴史的な作品である。

ベートーヴェンの交響曲は9曲しかない。全てを聴いても時間的には6時間程度。

どうかじっくりと聴いてほしい。本当に感動的な素晴らしい音楽ばかりである。
このブログが鑑賞の一助になれば、これ以上の喜びはない。

 

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