あの出口さんからAPU東京キャンパスに招待された!

僕が今、非常に熱心に読んでいるあのAPU学長の出口治明に直接お目にかかるという光栄な体験をさせていただいた。

僕が出口治明にこのところ特に夢中になって没頭していることは僕のブログ読者なら良く知ってくれていることだろう。

つい最近も、「いま君に伝えたい知的生産の考え方」「復活への底力 運命を受け入れ、前向きに生きる」という2冊を、このブログで紹介したばかりだ。

この熱々たけちゃんブログの中では、上記2冊を含めて、今までに合わせて7冊の本を取り上げさせてもらっている。亡くなってしまった立花隆を除くと、今、僕が最も夢中になって読んでいる方である。

その著者である出口治明さんご本人に、直接お目にかかることが叶ったのである。しかも、それに至る経緯はこの後で詳細に報告するが、単にお目にかかることができたというだけではなく、出口さんご本人からAPUに一度遊びに来てくださいと招待されたのである。

これを感動せずにいられるだろうか。

その対面は2024年2月16日(金)の午後のこと。今こうしてブログを書いているのは同じく18日の日曜日の午後なので、つい2日前、おとといのことである。

出口さんとの面談の際に、僕が持参した我が家の出口さんの本の全ての写真①
出口さんとの面談の際に、僕が持参した我が家の出口さんの全ての本を撮影したもの。
出口さんとの面談の際に、僕が持参した我が家の出口さんの本の全ての写真②
出口さんとの面談の際に、僕が持参した我が家の出口さんの全ての本がこちら。立てて撮影したもの。

重い障害の残っている出口さんだったが

前回紹介の「復活への底力」の中でも詳細に書かせてもらったとおり、出口治明さんは今から約2年前の2022年1月に突然の脳卒中(脳出血)に倒れ、幸い一命は取り留めたものの右半身まひと重い失語症となった。それでも懸命のリハビリに励み、約1年後の昨年の3月にAPUの学長に見事に復帰され、別府で単身生活を送るまでに快復していた。

奇跡的な復帰を見事に遂げたわけだが、今でももちろん電動車椅子に乗っていらっしゃり、かなり話せるようになったとはいうものの、前のように自由自在に話せるわけではもちろんない。

そんな重篤な障害を抱えた中で、出口さんの一人の熱心なファン、言ってみれば一読者に過ぎない見ず知らずの人間に時間を割いて会ってくれるということは大変なことだと思う。

APUの名前の入ったバックボードを前に出口さんからいただいた本を掲げて写した写真。
APUの名前の入ったバックボードを前に出口さんからいただいた本を掲げて撮影した。出口さんは写真の公開を快諾してくれたので、僕も顔出しで掲載する。詳細は後編にて。

 

それが実現した。しかもあの出口さんご自身からAPUに遊びに来てくださいと誘われ、それが見事に実現したのである。

いまだ興奮収まらずといったところである。はやる気持ちを抑えながら、できるだけ冷静に書こうと努めている。

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出口さんの脳卒中にショックを受けた

出口さんが突然の脳卒中で倒れたとのニュースを初めて知ったときは、衝撃を受けた。右半身にまひが残って、失語症で思うように話すこともできないという。

僕はその当時から出口治明の本は熱心に読んできた。病状を知ったときは大変なショックを受け、この先、著書を発行していくことも困難だろうと、非常に残念に思ったことを良く覚えている。

その後、出口さんは大方の予測を覆して、見事にAPUの学長に返り咲いたという報道にも接し、心底驚かされていたのだが、高齢ということもあり、いずれにしてもこの後はあまり活躍も期待できない、僕が熱心に読んできた半藤一利、立花隆が相次いで亡くなってしまった中で、この二人に継ぐ熱心に読み込む作家の対象と考えていた出口さんも脳卒中で倒れ、非常に暗澹たる思いに駆られていた。

書店で見かけた出口さんのあの本が発端

そんな中で、御茶ノ水の丸善の店頭でたまたま目に入った出口治明の本があった。それが例の「いま君に伝えたい知的生産の考え方」という文庫本だったわけだ。

この本のおもしろさは衝撃的だった。出口さんの真骨頂が非常に読みやすい平易な文章で、思う存分書かれていて、一気に読んだ。その内容の素晴らしさに圧倒される思いがした。

そして、本書の巻末の「文庫化によせて」の中で思わぬ文章を見つけたのである。

これが今回の出口さんとの感動的な出会いに直接繋がっていく。

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出口さんとの「面談」に至るまでの経緯

この本をたまたま丸善で手にしなければ、こういう出会いは実現しなかった。

その「知的生産の考え方」の巻末には、出口さんが脳卒中に倒れた経緯と、その後どうされているのかが非常に具体的に分かりやすく書かれていた。

そしてそれだけではなく、そこにはちょっと驚きの一文があった。

感想メールに返事を送るとの一文を発見

「『人生は何事も一期一会』だと思っておりますから、寄せられた質問や感想には、すべて返信するように心がけています」と書いてあった。

読者からのメールに対してすべて返事を書いている!?いう文章だった。

えっ!?まさか、本当に?信じられない!!

出口さんの著作には、巻末あるいは作品によっては冒頭のはしがきの最後に、読者による忌憚のないご意見、ご感想を送ってくださいと出口さん充てのメールアドレスが書かれているのが常である。

こういう方は非常に珍しい。出口さんの他には思い浮かばない。

僕はそのことはちゃんと知っていたが、まさかその読者からの感想メールに、著者の出口さんご自身が直々に返事を書くなどということは到底考えられず、そんなこともあって、僕はその出口さん宛てのメールアドレスに感想を送るなどということはしたこともなく、しようと考えたこともなかった。

ところが、そこには必ず全てを読んで、返事を書くと書かれていた。

しかも今は出口さんは重い障害を抱えた身である。

でも逆に言うと、そのような重い障害を抱えた身でありながら、それでも返事を送るという出口さんの言葉に、脳震盪を起こしそうな衝撃を受けた。

実際に若い読者とのメールでのやり取りが紹介されていたので、間違いなさそうだった。

だったら一度、送ってみよう。

出口さんの本はこれまでに7冊読んでおり、その7冊の全てにかなり丁寧にしてマニアックとも言っていいような長いブログ記事を書いて、世の中に配信していた。

だったら、僕がブログに書いた出口さんの本の紹介のブログ記事を読んでもらおう、そう考えたのだ。

そこで、思い切って出口さんにメールを送ってみた。

2023年の12月5日(火)の夜の11:14のことだった。

出口さんにメールとブログ記事を送信

すると驚いたことに直ぐに出口さんからメールで返信があった。

これには驚かされたが、これは良く読むと、自動返信だった。

出口さんの感想メールのアドレスは一つに限定されているので、全国の読者がそのアドレス宛てに感想などを送ると、そのアドレスから機械的に自動配信される仕組みが構築されていたようだ。

こう送られてきた。

「出口です。ご連絡をいただきありがとうございました。
現在、リハビリを続けながら校務を行っておりますため、返信に時間がかかったり、返信できないこともありますが、頂いたメールは全て拝読していますので、どうかご理解ください。
引き続き、よろしくお願いいたします。」

2023年12月5日のことである。時間は深夜の11時15分のことだ。僕が送信した直後に送られてきたわけである。

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翌朝に出口さんご本人からメールが届く

問題はこの自動配信の後の動きである。驚きのメールが出口さんから直々に届いたのである。

なおこの後に紹介する僕と出口さんとのメールのやり取りに関しては、出口さんからそっくりそのまま公開することを快諾してくれているので、念のため。

12月6日(水)の朝の10:29にメールが届いていた。

今度は出口さんのAPUのメールアドレスから直接送られてきた。自動配信のアドレスとは異なる直々のメールだった。これにはもうビックリだった。

その内容が驚嘆すべきもので、ちょっと目を疑ってしまった。

実は、僕はこの日、出口さんから直々にいただいていたメールに夕方まで全く気が付かなかったのである。

で、そのメール。

「一度APUにお出でください。出口」とある。

この出口さんからの最初の直接メールで、僕はいきなりAPUに遊びにお出でくださいと招待を受けてしまったのだ。

ちょっと取り乱してしまう。

APUに誘われたのは望外な光栄だが、APUは大分県の別府にあるのである。

そこで、僕は慌てて以下のメールを送った。2023年12月6日(水)午後5時半
「(前略)
>一度APUに遊びにお出でください。
との願ってもないお誘いのお言葉に、大変に嬉しく思っております。
先生にお目にかかるために飛んで行きたいのは山々ですが、私は住まいが東京都の町田市、勤務先の病院は千葉県の○○市ということで、大分県の別府はあまりにも遠過ぎます。

ですが、折角の先生からのお誘いですし、それを真に受けて、年明けの1月から2月にきっとお邪魔させていただきます。計画を立てさせていただきます。

それはそれとしたしまして、どうかそれまでに、私のブログの先生の御著書を紹介した記事をお読みいただき、ご感想、ご意見などを頂戴できれば(後略)」

すると、翌朝、また出口さんから直接メールが送られてきた。翌12月7日(木)9時52分

「東京で会いましょう。出口」

これを受けて、僕は10:45に以下のメールを返信した。

「先生、いつも早めにご返信を賜り、恐縮に存じます。願ってもないお話です。
年末年始にもなりますし、先生は東京にはいつ頃お戻りになられるでしょうか?
私の方は万障繰り合わせて対応させていただきますので、先生のご都合のつく日程を教えていただけると助かります。(後略)」

すると、それから約5時間後の15:26にまたまた出口さんから直メールが届いた。

「いつでも、いいです。出口」

僕は慌てて、以下のメールを送った。同日17:33

「そうは言われましても、先生も電動車椅子をお使いの身でいらっしゃいますし、やはり明るい時間であるとか、週末の土日とか色々な条件があろうかと存じます。
そもそも別府からいつお戻りになられるのでしょうか?」

この後は、出口さんからのメールは届かなかった。そこで、僕の方から以下のとおり具体的な日程を提示した。12月8日(金)10:16

「(前略)では、本当に遠慮することなくお邪魔いたします。APUの東京キャンパスに行かせていただきます。(中略)先生にお会いするためなら、いくらでも有給休暇を取ります。
(中略)(12月の候補日を5つほど掲げた)先生のご都合のつく日をご指定ください。(後略)」

この具体的な日程を提示した後、出口さんからのメールはぷっつりと途絶えてしまう・・・。

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APU別府の学長秘書からメールが届く

その後は出口さんからのメールは途絶えてしまった。あれ程、非常に短いものとは言っても、直ぐに返信してくれた出口さんから連絡が来ることはなかった。

僕の方でも、返事の督促をすることは非常に憚られ、出口さんは僕と会ってくれるつもりはなかったんじゃないかと、いぶかり始めた。

そんな矢先・・・。

今度は別府のAPUの学長補佐から、突然メールが届いた。12月12日(火)のこと。僕が具体的な面会日を提案して4日後だった。

Pさんという秘書の方からだった。

「(前略)本学学長の出口に代わりまして、ご連絡させていただきます。

出口がAPUにお誘いしましたため、12月に東京キャンパスでの面会を検討いただいていると聞きました。大変に申し訳ございませんが、12月はまだ別府で勤務しております。

また、学長の任期を12月で満了し、自宅のある東京に戻りますが、現在のところ、1月のいつ頃であれば落ち着くのかが不明なため、1月以降に再度、出口宛にご連絡をいただければ幸いでございます。(後略)」

これを受けて、僕は直ぐに秘書のPさんに連絡して、いくつか確認の質問もさせていただいたが、これらは省略させてもらう。実際にPさんからは回答はなかった。

1月下旬にあらためて出口さんに連絡

というわけで、1月に入ってからあらためて出口さんにメールを送ることになった。

ここで驚いたのは、出口さんが賢明なリハビリの結果、APUの学長に復帰できたというのに、何と昨年(2023年)の12月で任期満了し、学長をご退任になるとのことだった。

そうだったんだ、折角復帰できたのに!と仰天させられたが、色々とネットでググると、それは既定事実であり、退任の件は既にオープンになっていた。

ここで、僕はある大きな誤解をしてしまうのだが、それはまだ先の話しだ。

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こうして晴れて出口さんとアポが取れた

あの秘書のPさんのメールの印象から、1月に入ってからの出口さんへの連絡は、少し遅めにやろう、つまり1月の下旬頃にしようと決めていた。

ということで、僕の出口さんとの面会は、ここにきて一挙に1カ月以上、間が空いてしまうことになった。

それはやむを得ない。

思い立って、再度、出口さんにメールを送ったのは、1月25日(木)のことだった。

「(前略)かねてからのお約束どおり1月に入りまして、改めてご面会のお願いをする次第です。ご予定はいかがでしょうか?私は合わせますので、先生のご都合をおしらせください。(後略)」

すると、翌朝直ぐに出口さんから直メールが届いた。1月26日(金)10時だった。

「いつでも、来てください。○○○○〇〇です。出口治明」と送ってきてくれて、○○のところには都内の電話番号が書いてあった。

僕は直ぐにお礼のメールを送り、僕の携帯の電話番号をお伝えした。そして週末に電話かショートメールしますと約束した。

その週末には電話をすることができずに、週が明けて1月29日(月)に出口さんが書いてくれていた電話番号におそるおそる電話をしてみた。

僕は勝手に奥様か、場合によっては出口さんご自身が電話口に出てくれるのかと心配していた。

そして携帯から電話をする。

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教えてもらった電話番号に電話をすると

予想に反して直ぐに受話器を取ってくれた。これは変な表現か。直ぐに電話に出てくれた。

聞こえてきたのは、若い男性の声で、「○○○○です」とおっしゃる。うまく聞き取れなかった。少なくても出口とは聞こえなかった。

僕はてっきり電話番号を間違えて、違うところに電話してしまったか!?と思い、「こちらは出口治明先生のご自宅ではないでしょうか?」と質問する。

ここで僕が完全に誤解していたことが明確になった。

「こちらは立命館アジア太平洋大学の東京キャンパスです」と今度はハッキリと聞き取れた。

そうだったんだ。出口さんのご自宅でなく、APUの東京キャンパスだったのだ。

謎が全て解けたような気がしたが、出口さんは確か昨年の12月末でAPUは退任されているはずだった。あれれ!?どういうことなんだろう?

そこで、その電話に出てくれた若い感じの男性に僕がどういう人間で、どういうわけで今、電話しているのかを丁寧にお伝えした。

そして、「出口先生は昨年の12月で学長をご退任されていらっしゃるはずですが、まだAPUに残っていらっしゃるんですか?」と単刀直入に聞いてみた。

そこで、全てを理解することができた。

出口さんは、昨年末で学長は退任されたが、現在は学長特別補佐という立場で学内に残っていると説明をしてくれた。全てが判明した。

僕はてっきり学長の任期を満了するということは、そのままAPUそのものを完全にリタイアすることだと思い込んでいた。

あれだけの方だ。APUも出口さんを手放さなかったということだろう。納得した。

その電話口の男性スタッフが、出口とのアポをお取りになりたいということですね。それでは、出口の秘書に変わりますというので、「一旦電話を切らせてもらって、こちらから数分後に改めて秘書の方にこちらから電話いたします」と電話を切った。

秘書の方はKさんというとても感じの良い方だった。

あらためて過去の一連の経緯を説明して、「そちらにお邪魔して出口先生にお目にかかりたい。先生からもAPUに遊びに来てと誘われています」と日程調整をお願いした。

その中で、出口さんは毎日は来校していないが、週に何日も出勤していることが分かった。Kさんはぼくの都合の良い日をいくつか教えてほしいとおっしゃったが、「僕の方で先生のご都合に合わせますから、候補日を教えてほしい」とお願いして電話を切った。

Kさんは実に早かった。その日の夕方にはもう出口さんの会ってくれる候補日が4つもメールで届いた。

その中から2月16日の午後の3時でお願いした。

翌日の午前中にKさんから、僕の希望日どおりのご面会の案内メールを送って来てくれた。

面会時間は20分間だけだった。いかにも短いなあと残念に思ったが、出口さんがお忙しいことはもちろん、僕とは初対面でもあるし、出口さんは重い障害を抱えている。

長い時間の面談は負担になるんだろうと納得した。

それよりも出口さんが教えてくれた番号に電話をしたその翌日に早くも面会日が決まったというスピーディーな対応に、非常に驚くと同時に何よりも嬉しくてたまらなかった。

こうしていよいよ出口さんとの対面が実現することになったのだ。

(後編に続く)

 

 

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