目 次
バッハとバッハ家のこと
遂にバッハについて語る時が来た。大バッハことヨハン・セバスチャン・バッハのことだ。「バッハはバッハではなくメールだ」と言ったベートーヴェンを引用するまでもなく、今日では国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長の存在によって、バッハというのが、ドイツ語で「小川さん」という比較的ありふれた名字であることがかなり知れ渡ってきた。
作曲家として非常に有名なドイツの「小川さん」が、長いヨーロッパの音楽史を通じて、空前絶後の大作曲家であったことから始めさせてもらおう。それとバッハを語る上でもう一つ厄介な問題は、このドイツのバッハ家が遺伝学的にも有名な一族こぞって多数の音楽家を輩出したことでも知られている点にも触れておきたい。高校の生物の教科書にも紹介されるほどの特別な音楽一家なのである。16世紀末から19世紀前半までの300年弱に渡って、名のある音楽家だけでも80人以上を輩出したというスーパー音楽一家がバッハ家だ。
その中でもひときわ傑出した存在が我らがヨハン・セバスティアン・バッハ(J.S.バッハ)なのであるが、彼には最初の奥さん(又従妹にあたる)、死別してから後妻としてもらった二番目の奥さんという二人の妻との間に、何と20人もの子供がいて、そのうちの4人は極めて有名な作曲家として成長した。
「ベルリンのバッハ」または「ハンブルクのバッハ」と呼ばれあの有名なプロシャのフリードリヒ大王に仕えていた2男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハと、モーツァルトにも大きな影響を及ぼしたと言われている「ロンドンのバッハ」と呼ばれた末っ子のヨハン・クリスティアン・バッハの二人は特に有名で、当時、「大バッハ」と呼ばれていたのは、この二人の息子たちのことだったというとんでもない話しも、全て本当のことだ。
更に、バッハ自身は長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの音楽的才能をとりわけ愛して、今日の評価でも本当に天才的な才能に恵まれていたのはこの長男だというのが、ほぼ定まった評価となっている。ちなみにこの長男のフリーデマンは、「ハレのバッハ」または「ドレスデンのバッハ」と呼ばれている。才能があり、父バッハからの寵愛も厚かったのに、最後は放浪生活の末に亡くなったという悲劇の主である。
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「音楽の神」と呼ぶべき大バッハ
今日では「大バッハ」というのは、この偉大な息子たちの父親であるヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)であることは言うまでもない。同じ年生まれのヘンデルと並び称せられて、バッハは「音楽の父」、ヘンデルは「音楽の母」と呼ばれることは小学校でも習うことであるが、僕はこの「音楽の父」という尊称が嫌でならない。ヨハン・セバスティアン・バッハを「音楽の父」と呼ぶことは明らかな誤りであり、バッハに先立つ多くの先人の音楽家に対しても、バッハ自身に対しても非常に失礼なことだと思われてならない。
バッハを音楽の父と呼ぶと、バッハ以前にはまるで音楽というのもが存在しなかったかのように受け止められてしまうが、とんでもない。日本の音楽教育はこの辺りが本当に困ったことなのだが、バッハの前にも豊穣たる立派な音楽が何百年も脈々と続いており、錚々たる大作曲家たちがそれこそ数え切れないくらい存在していたのである。
バッハの音楽が「バロック音楽」と呼ばれていることは多くの方がご存知だと思うが、他の芸術同様にバロックの前にはルネサンスがあり、このルネサンス時代にも大作曲家は大勢いたことを決して忘れてはならない。
そもそも大バッハの音楽史的な位置付けは、バッハに至る前の中世・ルネサンスの音楽と更に当時の新しい音楽であったバロック音楽という人類のここに至るまでの長い音楽をまとめ上げて、集大成を図ったということに尽きるのである。
ありとあらゆる音楽がバッハのもとに流れ込み、それらを全てバッハがまとめ上げて、次の時代にバトンタッチしたという構図である。その意味でバッハの音楽にはその前の数百年間の全ての音楽的な成果が反映され、更に驚くべきことに、そうしてまとめ上げた音楽は、その後に続く古典派・ロマン派を超越して、そのまま現代に直結しているという奇跡的なものなのだ。20世紀の音楽であるジャズやポップスなども極めてバッハの影響が色濃い。
100年、200年という長い時をくぐり抜けて、そのまま現代にもつながるという時空を超越した空前のスケールと深淵さ。それこそがバッハの音楽の本質であり、古今東西の長い音楽史を通じても、こんな超越した天分に恵まれた大作曲家は他にはいない。人類史上の最高・最大の作曲家であり、僕はもうバッハのことは「音楽の神」と呼ぶしかないと思っている。「音楽の父」ではなく、「音楽の神」なのである。
大バッハが作曲した作品数はどれくらいあるのか?
バッハはオペラを除くありとあらゆるジャンルの作品を作曲したが、その作品数は約1,100曲といわれている。有名なマタイ受難曲などは1曲だけでも3時間半もかかる大作だったりするので、この数は大変ものだ。著名な他の大作曲家と比べてみよう。天才として有名なモーツァルトは断片を含めると約900曲。有名なケッヘル番号でいうと最終曲のレクイエムは626。シューベルトも断片等も含めると1,000曲近いが、作品番号を持つものは170曲ほどしかない。ちなみにベートーヴェンは作品番号が付いているのは138曲しかないのである。1,100曲という数の途方のなさが分かってもらえるだろうか。
そしてもう一つ驚くべきことは、この1,100曲の中にはほとんど駄作と呼ばれるべきものが存在しないということが神がかり的なのである。モーツァルトにも駄作は存在するし、シューベルトは曲の完成度の落差が極めて激しい。それに比べ、バッハには生涯を通じて駄作は1曲もなく、全てが至高の完成度で貫かれている。
また多くの作曲家には若書きのものと晩年とでは作曲技法も深さも当然異なり、年を重ねるにしたがって進歩、進化していくものである。生涯を通じて作風がドンドン変化していく作曲家が多いのであるが、バッハの場合には若書きのものも既に完成されており、年毎に進歩発展していくということが殆どない。深みは増していくが、成長という感覚ではない。最初から完成されているという稀有の作曲家なのである。やはり「神」と呼ぶしかない途方もない化け物のような存在なのである。
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全集にしてどのくらいの量なのか?
作品数だけでは作曲量が読みにくいので、全集としてCDの枚数がどれくらいになるのか紹介してみよう。
バッハの大全集は今日では色々なものが出揃っている。小学館の書籍と一緒になったバッハ全集は156枚。輸入盤でいくつかの全集が存在するが、155枚。172枚というものもある。ちなみにモーツァルト全集は170枚ほどなので、大バッハとモーツァルトは作曲した曲数はともかく、作曲した作品の演奏時間数の長さはほぼ同様だということが分かってくる。
僕のバッハとの出会い
僕は小学校の3年生の頃からクラシック音楽に夢中になっていたという変わった少年だったのだが、当時はクラシックの入門曲としてありがちな、名前付きの交響曲ばかりをもっぱら聴いていた。「運命」だ、「未完成」だ、「新世界」だ、「ジュピター」だと言ったぐあい。そんな具合に中学卒業まで有名な交響曲ばかりを必死で聞いていた。
それが高校に入学してベートーヴェンのピアノ協奏曲の第5番「皇帝」を聴いて、度肝を抜かされ、シンフォニー以外のジャンルにも興味を持つに至った。だが、まだまだバッハというのは、僕の中には入ってこなかった。
僕のバッハとの出会いは本当に遅くて、大学に入学後の京都の友人の下宿先であった。合唱団の仲間だった同級生の下宿に泊まり込んだ朝、目覚めの音楽として爽やかに鳴り響いてきた音楽に、金縛りにあったかように聴き入ってしまった。
忘れもしない、それが僕のバッハとの記念すべき出会いであった。ブランデンブルク協奏曲のあの有名な第5番だった。チェンバロという楽器を聴いたのもこの時が初めて。一目惚れということは確かにあるのだ。僕はあの時点でクラシックを聴き込んで既に10年程経過していたのに、初めてバッハを耳にして、一瞬にして心をわしづかみにされ、強烈な恋に落ちた。以来、今日まで約45年間、バッハと人生を共にすることになって、今日に及んでいる。
他にも好きな作曲家はモンテヴェルディ、ドビュッシー始め大勢いるが、バッハはもう完全に別格。正に音楽の神なのだから。
今、僕が買い集めたCDの数は2万か3万か、到底見当が付かなくなっているが、バッハのCDだけで5,000枚程は持っていることは間違いない。全集としては2種類。バラで集めたCDがとてつもない量となっている。
バッハのありとあらゆる作品が揃っていて、そればかりか同じ作品の別の演奏が無尽蔵にあるので、膨大な量に膨れ上がってしまう。
最も好きな曲である「ロ短調ミサ曲」は、つい先日まで世界で発売されているありとあらゆる演奏を手元に揃えていて、40種類を下らない。他にも「平均律クラヴィーア曲集」はチェンバロによるものとピアノによるものの全てを集めているといった具合。「無伴奏チェロ組曲」も同じ。そうやってバッハのCDは増えていく一方。
そしてバッハで不思議な点は、どんな演奏で聴いても、それなりに感動できるのだ。バッハの作曲した曲が素晴らし過ぎるので、ある意味で誰が演奏しても素晴らしい!ということになってしまう。他の作曲家ではそういかないことが往々なのだが。
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バッハの音楽の魅力はどこにあるのか?
バッハの音楽の歴史上の意味は理解できても、そもそもバッハの音楽そのものの魅力がなければ、誰だってここまでバッハに夢中になれないはずだ。とにかくバッハの音楽はとてつもなく魅力的なのである。その音楽の魅力はどこにあるのであろうか。
とにかく格調の高さ。それに尽きると思っている。単に耳に心地良い薄っぺらい音楽ではなく、そのメロディはとにかく格調が高く、崇高なのである。後のロマン派の音楽のような個人の感情の表出ではなく、もっともっと崇高な格調の高さに彩られている。
実はバッハには後のロマン派の音楽にも勝るとも劣らない美しいロマンチックなメロディも多いのだが、人間の感情の表出というよりは、正に天の声、神の声のような神秘性に満ち溢れたものなのだ。神の声といっても必ずしもキリスト教の神ではない。生涯を通じてドイツから一歩も外に出たことのなかったバッハは、ルターが打ち出したプロテスタントの宗教曲を量産したわけだが、だから神の音楽ということでは決してないのだ。人間を超越した特別な高みにある存在が生み出した音楽というべきものだ。
神の声というよりも宇宙の音楽と言った方がいいのかもしれない。深淵なる宇宙に鳴り響く人間の喜怒哀楽を超越した高みの音楽。それがバッハの音楽だと思われてならない。
難しいことばかり書いてしまったことが心配だ。神の声、宇宙の音楽と言いながら、一方で極めてロマンチックな美しい音楽も多く、その多様性は驚異的だ。とにかく一聴するなり、ハッとさせられ、心が浮かれ出すようなカッコ良さに満ち溢れた音楽がバッハなのだ。
まだバッハの音楽を意識して聴いたことがないという方がいらっしゃったら、どうか騙されたと思って、バッハの音楽に身を委ねてほしい。必ずや大きな幸福感で満たされ、バッハなしでは生きていけなくなってしまうことだろう。
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