長編でも短編でも天才ぶりを発揮した手塚治虫

手塚治虫は本当に天才だった。

何度も書いているが、ずば抜けた独創性と卓越したドラマ性、それらを巧みに伝えることのできる傑出した表現力を身に付けていた手塚治虫は、正に天才というか怪物というか、人知を超えた存在だった。

時空を自由に飛び越える常人の想像を絶する途方もない発想と壮大なスケール。その類まれな発想とスケールを「絵」として自由に表現することができた手塚治虫。

もう一つ驚くべきことは、手塚治虫は長編でも短編でも、最高の感動ドラマを描けたことだ。

こんな人は古今東西の作家の中でもほとんど例がない。本当に珍しい存在だ。

漫画の世界ではあまりにも傑出した存在でライバルがいないので、文学の世界で考えてみるが、長編小説を得意とした作家と短編小説を得意とした作家は、それぞれ別々だというのがこの世界の常識である。

例えば、長編小説を得意とした大作家ではドストエフスキー、トルストイ、フォークナーなどが典型。むしろ短編小説の方が特別な技倆と才能が求められて、古今東西、短編小説の名手という作家は何人もいるが、基本的には彼らは短編小説しか書かない。

僕が愛してやまないチェーホフ。モーパッサン、日本の芥川龍之介など。

ドストエフスキーも短編は書いたし、トーマス・マンや夏目漱石のように長編も短編もどちらも得意な作家もいたが、そんな存在は極めて限られている。

手塚治虫はその限られた存在どころか、めちゃめちゃ長い大長編も、短編もどちらでも天才ぶりを縦横無尽に発揮したのだ。

中編ものにも傑作が多く、つまり作品の長さは手塚治虫にとって全く問題ではなく、長いものでも、短いものでも、ほどほどの長さのものでも、どんな長さの作品でも自由自在に傑作としてしまう特別な才能を持ち合わせていたのだ。

こんな人は、古今東西どこを見渡しても、いない。

すごい。おそろしい。本当に空いた口が塞がらなくなる。

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名作「火の鳥」を読めば手塚の特性が良く分かる

あの手塚治虫のライフワークにして至高の名作の「火の鳥」だって、全ての作品に共通して登場する火の鳥の存在はあるが、それぞれ時代も主人公も異なる作品の集合体だ。この作品は本当に驚くべきもので、時代も主人公も全て違うどころか、SFであったり時代物であったり、テーマもまるで異なるばかりか、それぞれの作品の長さも異なっていることにも注目してほしい。一番長い作品は最後の「太陽編」。後は「未来編」にしても「鳳凰編」にしても中編が多いのだが、中にはかなり短い短編があり、これが実に捨てがたい味を持った傑作でもある。

「火の鳥」という一つの作品の中でも、大長編、中編、短編と多彩に使い分けた。このように機械的に割り切らないで、テーマといい作品の長さといい、自由自在に使い分けた手塚治虫の類い稀な特性は、この「火の鳥」一つ取っても、分かろうというものだ。

むしろ短編漫画が手塚治虫の真骨頂

一般的には手塚治虫は、長編漫画で実力を発揮し、長編こそ手塚治虫の創作の中心だと思われているかもしれない。

長編漫画に傑作、名作が林立していることは認めるが、手塚治虫の真骨頂は実は短編漫画の方にあることを知るべきだ。

例えば誰でも知っていて、大好きなあの「ブラック・ジャック」は、その全てが短編漫画である。全243編の短編漫画の集合体が「ブラック・ジャック」なのである。あの「鉄腕アトム」だってそう。本当の意味で、一つの物語がずっと長く続いていく大河ロマンは「ブッタ」と「陽だまりの樹」が双璧。僕が熱愛している「アドルフに告ぐ」など、思っているほど多くはない。

短編漫画こそ手塚治虫の類まれなドラマ作りが見事に発揮された舞台だったというべきだろう。ブラック・ジャックは毎回毎回のわずか20ページに盛り込まれた濃密なドラマにみんな夢中になったのだった。

本当に手塚治虫には素晴らしい短編漫画が山のようにあるのだが、作品集として最高傑作の名に恥じないものが今回紹介する「空気の底」なのである。これは手塚治虫ファンならずとも是非とも読んでいただきたい素晴らしい作品である。大変な問題作と言った方がいいかもしれないが。

紹介した「空気の底」の手塚治虫漫画全集の表紙絵。
今では入手できなくなってしまった講談社の手塚治虫漫画全集の表紙。せっかく手塚治虫自身が描いた表紙絵は、女性の乳房を一部隠さざるを得ないというバカげた話。手塚治虫への冒涜のようでやりきれない。
手塚治虫漫画全集の裏表紙
裏表紙。ジョーを訪ねた男。

「空気の底」シリーズの基本情報

「空気の底」は短編漫画集なのだが、そこに収められた具体的な作品を巡っては少し議論がある。発行された単行本によって若干だが取り扱われている作品が異なっており、本来のオリジナルの「空気の底」作品とその周辺の短編漫画が混在してしまっている。本来のオリジナル「空気の底」は今は14編とされている。一編だけ出版差し止めとなった問題作があったようで、それは今では全く読むことができない。それで14編。

ところが同時期に発表された単独の短編小説で、かつ内容的に同じ傾向のものを「空気の底」シリーズの中に一緒にして出版されるケースがあって、それらも含めて広い意味での「空気の底」シリーズとして取り扱うことにしたい。

「空気の底」シリーズの第1作「ジョーを訪ねた男」の発表は1968年9月25日。雑誌は大人向けのプレイコミックであった。時に手塚治虫40歳。前年にあの空前の名作である「火の鳥」の「未来編」の連載が開始され、何と「未来編」が完了した直後に発表されていることに衝撃を覚えてしまう。「未来編」は1968年の9月に連載を終え、同じ月の25日に発表されたのが「空気の底」シリーズの第1作だったのである。

「空気の底」シリーズはそれから毎月1話ずつプレイコミックに連載されていった。最後の第14作目の最終話「ふたりは空気の底に」の掲載は1970年の4月11日。ほぼ1年半の連載。手塚治虫は40歳から42歳という最も脂の乗った最盛期であった。

大都社から出ていた「空気の底」の単行本の表紙絵
こちらも今では入手できない大都社から出ていた単行本の表紙。僕が大好きなエピソード「聖女懐妊」からのシーン。
大都社からの単行本の裏表紙
これが裏表紙。こちらは「カタストロフ・イン・ザ・ダーク」から。但し、これと同じ設定シーンは存在しないのだが。

 

この時期に発表された作品には何と言ってもあの「火の鳥」の「鳳凰編」がある。つまり「空気の底」シリーズは、あの手塚治虫の最高傑作、至高の名作「鳳凰編」と完全に並行して書かれた作品ということだ。この「空気の底」シリーズが大変な傑作揃いになったのは、至極当然のことだと思わず納得してしまう。

「空気の底」のはハードカバーの表紙
ハードカバー版の表紙。直接エピソードを連想させる絵ではなくて、非常に残念だ。何故だろうか?

ミステリー、ホラー、世紀末SFなど暗い話しが多いが

さて、「空気の底」シリーズだが、全14編はそれぞれ完全に独立したストーリーで、相互に全く関係はないという作りになっている。いわゆる作品のジャンルも全くバラバラである。ミステリー、サスペンス、SFと実にバラエティーに富んでいる。但し、ストーリーもジャンルもバラバラであるにもかかわらず、作品の底辺には共通のトーンが流れている。

それは最終話のタイトル「ふたりは空気の底に」から引かれた「空気の底」という作品集のタイトルからイメージされる世界だ。

「空気の底」すなわち「地球の表面」で、うごめき、苦しみ、あがいている人間どものどうしようもない生き様と悲劇である。

というわけで、この作品集のトーンは全体的に暗く、厳しい。救いを求めて、うごめく人間像というべきか。

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空気の底でうごめき、苦悩する人間。そしてロボットも

どの一編を取っても、深い感銘を受ける飛び切りの傑作がズラリと揃っている。

短編漫画であり、それぞれの作品は20ページほど。あの「ブラック・ジャック」の各話と同じ長さである。この僅か20ページの中に盛り込まれたドラマの何と濃密なこと。これにはただただ驚嘆してしまう。

中にはハッピーエンドで終わり、思わぬ展開に心温まる作品もあるのだが、全体的には謎に包まれた悲劇的な結末が多い。

これは当時、アメリカで大ヒットし、日本でもお茶の間の話題となっていた「ミステリーゾーン」(「トワイライトゾーン」)やヒッチコック劇場などのミステリアスな世界を探求したものと言えそうだ。

日本で言えば、あの「世にも奇妙な物語」の世界である。

これらの一連のシリーズが書かれたのは1968年から70年なので、今から実に50年以上前。半世紀前なのである。

さすがに古くなってしまった題材も中にはあるが、まだまだ十分に楽しめるどころか、深い感銘と感動を受けることは必至である。

またこの時代を反映して、核戦争によって人類が滅亡するという背景が盛んに出てくる。この空気の底シリーズは、あの至高の名作「火の鳥」の「未来編」を完結させた直後の作品群だということを忘れてはならない。

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手塚治虫自身の大のお気に入り。自身も納得の傑作群

このシリーズは手塚治虫自身も大変に気に入っていたことが知られている。

手塚治虫漫画全集の巻末に書かれている「あとがき」の中で、

手塚治虫は「ぼくは、この短編のどれもが大好きなものです。それぞれに熱をこめ、工夫をこらして描きあげたつもりです。優にひとつひとつが長編になり得る要素をもっています。当時は虫プロの末期で、いろいろ多難な時代でしたが、そんなに暗いムードでもなく、よくひきしまった味が出せたものだと思います」云々と書いている。

手塚治虫はどんな名作、傑作であっても、自身で手放しで満足感を表明することは極めて稀だったので、ここまで書くことは本当に珍しいことで、それだけ思い入れの強い作品だったということなのだろう。

但し、もう少し情報を提供しておくと、後日、別の作品(「ザ・クレーター」)の「あとがき」の中で、「読み切り連作は、つまり短編の集合なのでどうしても出来不出来があるし、印象も散漫になりがちです。しかしこの「ザ・クレーター」はかいていて楽しく、「空気の底」や「ライオンブックス」「メタモルフォーゼ」などの連作ほど出来の差がはげしくなく、一応のレベルを保っていると思います」と書いている。

うん?「空気の底」は出来の差が激しいということを言っているのだが、「どれもが大好きで、それぞれに熱をこめ、工夫をこらして描きあげたつもり」ではなかったのか!?

手塚治虫の本音は、本当はどうだったのか、不明である。「空気の底」よりも出来の差が激しくなく、一応のレベルを保っていると手塚治虫が書いた「ザ・クレーター」は確かに素晴らしい連作で、僕も大好きな作品だ。次回はこれを紹介したい。

意外な結末と濃密なドラマに圧倒される

どの一編を取っても濃密なドラマが凝縮されている様は見事の一言に尽きるが、僕は、厳密には「空気の底」シリーズに含まれない数編のエピソードがとりわけ好きだ。

これらは「空気の底」シリーズの前後に同じプレイコミックに掲載された4編で、同じシリーズと考えて何も問題はないのだが、厳密には独立した単独作品ではある。

「処刑は午後3時に終わった」
「聖女懐妊」
「嚢」

この3編に特に心を奪われてしまう。いずれも甲乙つけがたい絶品である。これらは本当に手塚治虫の全作品を通じても屈指の名作ではなかろうか。是非とも読んでいただきたいものだ。

「空気の底」シリーズは、どのエピソードを取っても感銘を受けないものはないが、基本的には最後に意外などんでん返しが待ち構えていたり、それこそ最後の1枚の絵の中に全ての問題提起とその答え、更に作者の思いの全てまでを凝縮させるケースが多いので、どの作品でも最後の1枚は、できるだけ見ないように、隠しながら(笑)慎重に見てほしい。

アッと驚かされたり、またあまりにも切なくて涙が止まらなくなるものなど、手塚治虫の霊筆にやられっぱなしとなる。どうか存分に楽しんでいただきたい。

空気の底<オリジナル版>を強く勧めたい

手塚治虫が好きな方、もう「空気の底」は読んだことがあるという方には、立東舎から出版されている<オリジナル版>を声を大にしてお勧めしたい。

手塚治虫作品の「オリジナル版」については以前、「アドルフに告ぐ」で紹介したが、このところドンドン競い合うように出版されているのだが、いずれも7,000円から8,000円、作品によっては1万円以上する高価なものも珍しくない。「アドルフに告ぐ」のオリジナル版は実に30,000円もする高嶺の花だ。

そんな中にあって立東舎から出版されているもの(現在10作品ほど出ている)は、3,000円から4,000円程度のもので、非常に格安。本の装丁や紙質も他の出版社からの高価なものと何ら遜色はなく、これは出版社のご努力としか言いようのないもの。他社の半額以下。手塚治虫へのリスペクトが感じられ、素晴らしいことだと頭が下がる。

オリジナル版の表紙
これがオリジナル版の表紙。いかにもいい感じの絵で嬉しい。これはタイトルにもなっている「ふたりは空気の底に」から。
オリジナル版の裏表紙
オリジナル版の裏表紙。全14タイトルと4つの独立作品の全てのタイトルが紹介されている帯が最高だ。

 

この「空気の底」<オリジナル版>も本当に素晴らしい内容で、正に家宝と呼びたくなるもの。もちろん大判サイズで、連載当時のオリジナルにトコトンこだわり、カラーページも豊富だ。解説や資料なども実に充実していて、本当に嬉しくなってしまう。

本当にこれはお勧めである。

ということで、手塚治虫の傑出した短編漫画がズラリと勢揃いした「空気の底」を是非とも味わってほしい。

我が家にある全ての「空気の底」(4種類)
これが我が家にある「空気の底」の全て。4種類。現在、普通に入手可能な手塚治虫文庫全集の文庫は所有していない。
4種類の「空気の底」を立てて横から写した写真。
4種類の「空気の底」を立てて横から写すとこんな感じである。やはりオリジナル版の大判で読みたいところである。

 

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