熱愛して止まない立花隆が逝去

僕が敬愛して止まないあの立花隆の訃報が6月23日(水)にあった。敬愛というより熱愛か。今まで色々な人の書いた本をかなり読んで来たが、立花隆は僕にとって全く別格の特別な書き手であり、僕は数十年間に渡って熱心に読み続けてきた。

僕がどれだけ立花隆に夢中になってきたかについては、過去のブログをどうかお読みいただきたい。立花隆に関する記事は4本ほど書いてきた。公開の古い順に以下のとおり。

「小説なんかやめて、ノンフィクションを読め!これがお奨め!!」https://www.atsutake.com/2020-02-12-134522/

「立花隆をトコトン極める」https://www.atsutake.com/2020-02-12-221352/

「立花隆の全ての本を、写真で大公開!!」https://www.atsutake.com/2020-02-17-195315/

『「立花隆「知の旅は終わらない」~ワクワクして感動が止まらない「立花隆自伝」』https://www.atsutake.com/tatibanatakashi-tinotabi/

その最初のブログの中の冒頭で、僕はこう宣言している。
立花隆は僕の血であり、肉であり、骨である」と。本当にそのとおりなのだ。僕の読書人生は、ある意味で立花隆の本ををひたすら追いかける人生だったと言っても過言ではないくらい。もちろん、他にもかけがえのない作家はたくさんいるのだが、やっぱりこの人は僕の中では、別格の特別の人であった。

そんな立花隆の突然の訃報。衝撃を受けないわけはなかった。悲しくないわけがなかった。

だが、意外にも僕は思ったほどには動揺せず、比較的冷静だった。80歳という辛うじてではあるが、天寿を全うしたと言える年齢であったことと、実は逝去については、僕はある程度は元々覚悟していたもので、そのせいで思ったよりも冷静でいられている。

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覚悟は前からできていた

立花隆はかねてより膀胱がんを公表しており、その手術については詳細に報告がなされ再発がいつあっても不思議ではなかったこと。また、その後の心臓の大手術もあって、いつ亡くなっても不思議ではない状態だった。

更に、元々立花隆は「死」について長きに渡ってズッと思索を深めてきた人で、最近は「死はこわくない」という心境に達していたことは重々承知していたので、僕も冷静にこの事実を迎えることができた。

逝去そのものよりも2カ月近く封印されたことがやり切れない

この亡くなられた事実よりも、報道のあった日よりも2カ月近く前の4月30日に既に亡くなっていたこと、つまりあの立花隆の死が、2カ月近く封印されていたことの方に違和感といたたまれなさを感じてしまう。

最近では、先日の田村正和といい、小林亜星といい、今回の立花隆といい、どうして亡くなったことをすぐに報道してくれないのか?親族の思いの反映だろうが、特別に熱心なファンとしては、亡くなったと同時に喪に服したいという思いがあって、やり切れない。

どうした2カ月間も伏せられていたのか?どうしても理解できないのである。

そのことが悲し過ぎる。

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立花隆ロスに備えて読み控えていた本を片っ端から読み始めようと決心

立花隆の100冊を優に超える膨大な著作のほとんどを読んできた僕は、未だに読み終わっていない数冊(10冊弱)を、立花隆ロスを回避する意味もあって、敢えて読まないで置いてあったというのは、紛れもない事実である。

若い頃から熱心に読み続けて来る中で、もう残り1割程度のところまで来ると、不思議なことに何だか全てを読み切ってしまうことに抵抗が芽生えて来る。敢えて読みたくないという気持ちになってくる。

主要な作品は全て読み終わっているばかりか、繰り返し読んでいるものも少なくない。

未読として残っている作品は、1~2冊を除けばそれほどの力作ではなくなっていることもあり、このまま読み切ってしまうのではなく、残しておこう!そういう感じで来ていた。

そして何かあったとき、つまり亡くなってしまった時にゆっくりと大切に読ませていただこう、そんな気になっていたのである。

そしてその日は遂にやって来た。突然の訃報に接し、未読の作品を全て読み切ろうと決心するに至った。遂にその時はやって来たと。

そんな中で真っ先に取り上げ、一気に読んだのが、その名もズバリ「死はこわくない」という本であった。

立花隆のこの柔和な表情に涙を禁じ得ない。合掌。
ここに書かれているような気持ちで、亡くなられたのであろうか?現在は文庫化されている。文春文庫。

直ぐに読み終えてしまう短くて薄い本

この「死は怖くない」は、訃報を聞いた後で読むにはこれほどピッタリなものはないというほど、正に亡くなられた今、読むべき本には違いない。

だが、これは立花隆としては、本当に立花隆らしくない小さな薄い、直ぐに読めてしまう簡単な本である。

文藝春秋から出版されているのだが、少し変わったサイズ。普通の新書と同じ高さだが、横幅が新書よりも1cmほど広い変形版。
もっとも現在は、普通の文庫本になっているが(文春文庫)。

ページ数も何と189ページしかない。その上、この本は文字の大きさがかなり大きい。僕のような老眼には非常に助かるのだが、余白も妙に目立つし、とにかく活字があまり多くないという印象が強く、いかにも物足りない本というイメージなのだ。
多分、文庫でも一緒だろうと思われる。

これはどう考えても余白が広すぎるのではないか。

文字の大きさがかなり大きくて、余白も広く、ページ数も少ない本。かつての精力的な活動がすっかり影を潜めた近年を象徴するかのような体裁に、積極的に読もうとは思えなかったのである。色々な意味で食指を動かされない、残念な本だと思っていた。

字も大きくて薄いので、集中して読めば多分2、3時間で簡単に読めてしまうこと請け合いだ。
映画一本。手塚治虫の火の鳥の「未来編」や「鳳凰編」を読み終える時間とほぼ一緒。直ぐに読める。

突然の訃報に接してからの最初の週末。昨日、6.26の土曜日の午後に、丁寧にゆっくりと読み始めたが、それでも2時間ちょっとで読み終えてしまった。

ハッキリ言うと、少し物足りない。立花隆の力作を読んだような達成感には程遠い。たが、それはそれとして、やはり訃報に接した直後に読むのに、これ以上の一冊はなかった。

この左側に書かれているものを読むとさすがに感無量となる。合掌。

両親は揃って長命だったのに

死について書かれたこの本の最初の方に、ご両親の亡くなった話しが紹介されている。それによると、立花隆の父親も母親もふたり揃って、何と95歳で亡くなられている。良心揃って驚くほどの長命だ。

そのことを受けて、本書の中で立花隆自身が、「二人とも、日本人の平均寿命よりも長く生きました。人の寿命の長短と相関関係がいちばん強いのは、その人の親の寿命らしいので、僕も長生きするのかもしれません。でも、僕自身は、両親ほど長生きしたくないですね。(後略)」と書いている。

この本の執筆当時、立花隆は75歳。今から5年前だ。それから5年後の80歳で、本人は両親よりも15年も早く亡くなってしまった。その事実を知らされると、やっぱり残念な思い、もう少し永らえて、もう1~ 2冊、力作を残して欲しかったと思わずにはいられない。

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さまざまな角度から、人の死について論じた3編の文章

ここに収められているのは、本人があとがきで書いているように「さまざまな角度から、人の死について論じた3編の文章」である。

第一章 死はこわくない
第二章 看護学生に語る「生と死」
第三章 脳についてわかったすごいこと

こういう内容である。いずれも立花隆が長年に渡って思索し続け、多くの本を著してきた生と死を巡る重要なテーマについて、その総括がなされている。そういう意味では、今までの歩みの集大成とは決して呼べる分量と内容ではないが、総括として、75歳に至った立花隆の思いが伝わってくる貴重なものだ。

総括と書いたが、現時点での結論を書いているというよりも、若き日から今日に至るまでの思索と活動を振り返って、その時の思いを紹介しながら、現時点で辿り着いた境地を、いつもの立花隆らしく非常に分かりやすい、誰でも理解できる平易な文書で書いてくれているのが嬉しい。

そして、この薄い本を読んで強く感じることは、立花隆が目の前にいて直接語ってくれているような感じなのである。何とも心が和らぐ。思わず幸福感に満たされてしまう。圧倒される読後感、読み切ったという達成感はないが、亡くなってしまった立花隆が、自分の目の前にいて、自分に対して優しく語りかけてくれる感じは、本当に他には得難いものだ。

臨死体験については、最終結論を分かりやすく紹介

立花隆の膨大な仕事の中でも、最も興味深いテーマの一つが「臨死体験」である。実際に立花隆自身が亡くなってしまった今、この臨死体験について、最終的に立花隆が辿り着いた結論がどのようなものであったのか、興味はつきないところ。第一章は主にその話しである。「死」の本質、死ぬとはどういうことなのか、人間にとって最も重要なテーマが分かりやすい言葉で語られる。これは必読。

看護学生に対して行った講演録を元とした第2章も、中々感動的である。これを直接聞くことのできた看護学生は本当に幸せだった、この時の立花隆の言葉がどこまで響き、今は第一線の現場で患者の死と向き合っている看護師たちはどう思って働いているのか興味はつきない。

人の意識の本質に迫る第三章も実におもしろい。立花隆の真骨頂を見る思い。

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充分過ぎる仕事と業績の数々に心残りはないが・・・。

立花隆の業績は不滅。その充分過ぎる仕事と業績の数々を思い起こせば、僕にはほとんど残念な思いはない。長い間、出版されなかった「武満徹」に関する分厚い作品(「武満徹・音楽創造への旅」)が陽の目を見た以上、僕としてはあまり心残りはない。十分に頑張っていただいた。もう安らかに眠ってほしいと祈らずにいられない。

そうは言っても、少しだけ口惜しいのは、立花隆があの腐敗した政治権力に立ち向かってくれたあの途方もないジャーナリズムとしての活動が、安倍晋三と菅義偉というこの2代の自民党政権にはほとんど及ばなかったこと。これは本当に残念でならない。

全盛期の立花隆がいてくれたら、あの森友学園と加計学園の問題にどう切り込んだのか。財務省による公文書の隠蔽・捏造問題をどう扱ったのか。それが発揮されなかったのは本当に痛恨の極み。

またこの全世界を覆いつくしたパンデミックの新型コロナ対策で、特に迷走を続ける今の菅内閣への批判を聞きたかったものだ。オリンピック・パラリンピックの開催を巡っても。

もう一点は、前回に紹介した立花隆自伝である「知の旅は終わらない」の最後に触れられている、今後の取り組みたい仕事の中で触れられている「立原道造」について。これは読みたかった。立花隆による立原道造論。これが幻で終わってしまったことは、断腸の思いである。ご本人もそれだけは悔いが残ったことだろう。

長きに渡ってお疲れ様でした。合掌。

 

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