今すぐに読んでほしい手塚治虫の最高傑作がこれだ

今回はいよいよ「鳳凰編」だ。手塚治虫の畢生の大作にしてライフワークの「火の鳥」シリーズの中でも、「未来編」と並ぶ甲乙付けがたい頂点であり、手塚治虫の全作品を通じても、ベスト5の一本だということは、もう何度もこの熱々たけちゃんブログの中で触れさせてもらってきた。

本当に凄い作品。僕はこの「鳳凰編」を今までに何回読んできたのか、皆目見当がつかない。10回や20回どころではないことは明らかだ。今回、ブログに取り上げるに当たって、もう一度初心に帰って、一切の先入観を捨てて、読み直してみた。

で、やっぱり凄い。これはとてつもない名作だと、あらためて痛感させられた。読み終えてから数日経過しているが、まだ感動の余韻に浸っている。

丁寧に読んだのだが、時間的には2時間半程度でじっくりと読むことができた。ちょうど映画1本分である。

冒頭から、こう言わせていただきたい。これは非常に有名な作品で、手塚治虫屈指の名作として知られているものなので、このブログを読んでくれている多くの方が、既にお読みのことだろうと思われる。だが、もしまだ読んだことがないという人がいたら、とにかく実際に作品を手に取って、お読みいただきたい。僕のお願いはそれに尽きる。良く言うように「この作品をまだ読んでいない人は幸せだ。これからあの感動を味わうことができるなんて」ということになるのだが、とにかくその幸福な体験を直ぐにでも実現させてほしい。

かつて、多くの読者の心を鷲掴みにし、虜にした我王の物語を今すぐに、味わっていただきたい。

そして、もう一点。既に読んだことがあるという貴方。もう何度も読んだよ、という貴方。そういう方も、どうかもう一回、改めて読み直してほしい。細部は忘れてしまっていることが多いし、改めて読み返してもらうと、新たな発見と感動が必ずやある!そう断言したい。

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「未来編」とはシチュエーションが全く異なるのが、天才の証し

前回、大絶讃した「未来編」とは、火の鳥シリーズの双璧として頂点を構成しているのだが、この「未来編」と「鳳凰編」は、実は設定も物語の展開も全く異なっており、似ても似つかぬ作品となっていることが驚嘆に値する。

もちろん、火の鳥という永遠の生命体は共通して出現し、この遠大な物語のバックボーンとして重要な役割を果たすのだが、本当にこの「火の鳥」シリーズの超弩級の名作2作が、似ても似つかぬ話しであることの衝撃をどう伝えたらいいのか。

「未来編」は完全なSFであり、「鳳凰編」は完全な歴史ドラマである。そこを縦断して貫く「火の鳥」の存在がまた凄いのだが、どうしてこのようにトーンというか、筆致も変えながら、それでいて甲乙付けがたい完成度と感動を伝えることができるのか?これはもはや人間業ではないとさえ思える。両者の描かれた時期は決して離れておらず、ほぼ同時期であり、手塚治虫の最も脂が乗り切っていた時期だったのは確かだが、それにしても凄い、あり得ないことだ。空恐ろしいばかりである。

「未来編」でも書いたが、このワイド版でどうしても読んでほしい。右側は朝日ソノラマからかつて出ていたものだが、左側の朝日新聞出版の復刻ものは今でも普通に入手可能。これが紙の質も素晴らしく最高!値段も廉価で嬉しい。
かつて出ていた愛蔵版。本当に美しい本で気に入っていたが、もちろん今は入手不能。
かつての愛蔵版の裏表紙。当時の1,800円は、今なら6,000円以上だろう。税の表示がないことが妙に懐かしい。
これが大ベストセラーとなった角川文庫版。火の鳥は文庫本では読まない方がいい。

「鳳凰編」の基本情報

「手塚治虫を語り尽くす」シリーズのいつもの例にしたがって、基本情報を掲げておく。

連載は1969年8月~1970年9月までの14カ月間。手塚治虫41歳から42歳にかけて。ライフワークの「火の鳥」シリーズではあの傑作「未来編」が書かれた後、「ヤマト編」「宇宙編」が発表され、それに続く第5作として書かれたのが「鳳凰編」という訳である。「未来編」の完成からちょうど1年後のスタートだ。正に手塚治虫の絶頂期。掲載雑誌はCOM。この頃、手塚治虫は短編の傑作をかなり集中的に書いていることに注目だ。短編SFの飛び切りの傑作とされている「空気の底」シリーズと、少年チャンピオンでは「ザ・クレーター」も同時に連載していた。これがもう暫くしてあの「ブラック・ジャック」に繋がっていくことになる。

また、このブログの「手塚治虫を語り尽くす」シリーズで取り上げている例の「ビッグコミック」での青年・大人向けの一連の作品群の連載が始まっていることにも注目してほしい。既に紹介させてもらったあの傑作「きりひと讃歌」(https://www.atsutake.com/tezuka-kirihitosanka/)とは何と6カ月間も重なっている!「鳳凰編」と「きりひと讃歌」という手塚治虫の屈指の傑作が半年に渡って同時に連載されていたとは。正に天才としか言いようがない。40代を迎え、遂に「傑作の森」が出現したわけである。

これも現在では入手できなくなった「オリジナル版」の復刻大全集の鳳凰編。実に素晴らしい装丁と造本だが、紙質に不満があって、僕は好きではない。同じ内容でサイズが小さくなった版が最近出ているが、非常に高額でお勧めできない。やっぱり朝日新聞出版のワイド版がベスト。
現在では入手できなくなった講談社の手塚治虫漫画全集から。鳳凰編は5巻と6巻の2分冊だが、何故か5巻が行方不明。手塚治虫自身が描いた表紙絵が素晴らしい。左側の酷い鼻の持ち主が我王。中央のイケメンが茜丸。左端が我王を導いた良弁だ。
中々圧巻である。
立ててみるとこんな感じ。大きさと厚さに注目。僕はコンビニコミックスのこの分厚さが大好きだ。「ヤマト編」「宇宙編」「鳳凰編」の3作品が揃って、何と800円という驚異の安さ。もちろん今では入手できない。

どんな物語なのか?

冒頭からエンディングまで、主人公我王(がおう)の壮絶な生き様に圧倒され、打ちのめされる。

時は奈良時代。主人公の我王は生まれたその日に出産を喜ぶ父親の馬鹿げた行動で、左手は失われ、右眼は潰れるという瀕死の大怪我を負ってしまう。父親は死に、母親は発狂してしまうという呪われた人生を送ることに。村でも徹底的に虐められ、15歳の時に酷い意地悪を受けて、遂に怒りが爆発。

虐めた一家を皆殺しにした上に、逃亡を続ける中で巡り合った若き彫刻師の茜丸(あかねまる)の大切な右手を、嫉みから切りつけて使えなくしてしまう。追いかけてきた茜丸の妹を名乗る美しい少女を凌辱し、強引に妻とし、その後も行く先々で強盗を繰り返し、無辜の人々を無慈悲に殺戮し続け、暴虐の限りを尽くす。

やがて捕らえられ打首になる直前に良弁という高僧に助けられ、良弁と共に全国を行脚するのだが、我王は自らの非道を悔い改め、人間性を取り戻すことができるのだろうか?

一方で、右手をダメにされた茜丸は絶望するが、これまた高僧に導かれて、再起を図る。この二人の運命が複雑に絡み合いながら、最後に相まみえる想像を絶する顛末とは?

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圧倒的な人間ドラマに打ちのめされる

これはもう凄いとしか言いようのない至高の人間ドラマ。正しく手塚治虫の最高傑作と呼ばれるに相応しい壮絶なドラマの展開に無我夢中となり、ハラハラドキドキの展開に時間の経つのを忘れて、読み耽ってしまう。

この世の悪と不幸の全てを一身に背負い込んだ我王と、一旦は将来の道を断たれた被害者の茜丸。この我王と茜丸二人の相剋の運命。最後に再び相まみえる二人の最終対決はあまりに辛く、胸が締め付けられる。

数え切れない程の人間を殺してきた我王のあまりにも壮絶にして辛過ぎる人生に慟哭し、涙が止まらなくなってしまう。

狂ったように仏像づくりに没頭する姿は手塚治虫自身に他ならない

我王が怒りの矛先を木を彫ることに向け、仏像作りに目覚めた後、狂ったように、取り憑かれたように仏像や鬼瓦の創作に全てのエネルギーを注ぐ姿は、もちろん手塚治虫自身の姿の反映だ。我王は手塚治虫自身に他ならないと言っていいだろう。

「鳳凰編」のもう一つの大きなテーマは、創造である。ものを創る、創造するということ。その苦闘と苦悩。そしてどのように作品と向き合うことが、人々に感動と癒しと救いをもたらすことになるのか。人々に感動と救いを与える創作物、芸術はどうやってこの世に誕生するのか。そんな究極の芸術論がこの作品を貫ぬく、底辺にずっと流れ続けているもう一つの重大なテーマ。それは正に手塚治虫が日夜、問い質していた究極の問いかけであり、手塚治虫自身の生きる道の模索でもあった。この狂ったように仏像作りにのめり込む我王に自らの姿を投影していたことは間違いない。

片手が無くても、あるいは失われても、それを克服して創作し続ける二人の彫刻師。手塚治虫は我王にも茜丸にも、同じように共感を感じ、そのひたすらな努力と献身を評価しながらも、最後には厳しい裁定を下すことになる。手塚治虫も迷い抜いた苦渋の結末だったようにも思えるのである。

比肩できるのはドストエフスキーの「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」しかないのでは

これだけ濃厚にして感動的なストーリーは、数多の文学作品でも正直に言って比肩するものを探すのが難しい。ドストエフスキーのあの「罪と罰」と「カラマーゾフの兄弟」という古今東西の最高の文学作品が唯一、匹敵できるくらいかと真剣に考えている。

実際、この「鳳凰編」は手塚治虫の「罪と罰」に他ならない。手塚治虫には、若かりし頃、ズバリ「罪と罰」を漫画化しているのだが、それはまだ未熟な作品で、それほど感動できるものではない。この「鳳凰編」こそがドストエフスキーに心底太刀打ちできる、いやそれを乗り越える唯一の作品だと断言したい。

「鳳凰編」には仏教に対する深刻な不信もあり、その意味で「カラマーゾフの兄弟」にも匹敵しうる深淵さと崇高さをも兼ね備えている。

この深遠さと崇高さ。類いまれな感動を、手塚治虫は漫画で表現してしまった。これを漫画の革命と呼ばずして何というのか。漫画でドストエフスキーの最高傑作に勝るとも劣らない至高の世界を表現できた手塚治虫は、天才と言うよりも正に怪物と言うしかない特別な存在だ。

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稀有な漫画表現の全てを駆使して描いた妥協なき人間ドラマ

漫画という表現媒体を一挙に文学にも引けを取らないレベルにまで引き上げた手塚治虫。ストーリー漫画を開拓し、漫画という当時子供騙しだと思われていた媒体、表現を用いて、大人をも夢中にさせる物語世界を構築した手塚治虫。その手法を生み出したパイオニアは、それを空前の高みに引き上げ、一挙に世界最高の文学に勝るとも劣らない表現が可能な媒体にした。

特に、この一蓮の「火の鳥」シリーズで手塚治虫が取り入れた表現は、驚くべきもので、漫画を子供の読むたわいもないものから大人の鑑賞にに耐えうる文学と互角に対抗できるレベルに引き上げることに成功した。

特に、「鳳凰編」が随所で取り入れた斬新かつ革新的な漫画表現には驚くべきものがある。

手塚治虫の驚嘆すべき革新的な漫画表現

先ず一つは、手塚治虫は漫画で映画と同じことをやろうとした。映画の最新技法が惜しげもなく、この鳳凰編には満ちている。元々映画狂の手塚治虫は、漫画で最高の映画表現を目指したのだ。

目を見張る斬新な映画技法

先ずは大胆な俯瞰的表現だ。天の高みから苦悩する我王を捉えた構図が数カ所に出てくる。

そしてそれが極端なクローズアップとロングショットに結びつけられる。

細かいコマ割りが正に映画表現を意識したものになっている点が特徴的だ。

この世の不幸と苦悩を一身に背負わされた我王を、上空から神の視点で見ているシーン。それが一挙にズームアップして極々小さなものを映し出すあたり、驚嘆するしかない。

これはこの不幸の人、我王を見つめる神の視点だが、もちろんそれは火の鳥の視点に他ならないということに注意してほしい。

怒りに身を任せて、残虐の限りを尽くす我王。そして何度も繰り返される深い絶望の淵への転落。それら全ての愚かな営みを、上空からしっかりと見届けている火の鳥。それを意識させられる俯瞰的表現。

もう一つは、我王が火の鳥に導かれて、自らの遠い先祖やはるか彼方の自分の子孫たちの苦悩し、破滅していく姿を延々と見せられるシーンが圧巻。フラッシュバックとオーバーラップを駆使する強烈な映像だ。

本当に腕のいい監督によって、この未曾有の人間ドラマと火の鳥そのものを映画にしてもらえないだろうか?

手塚治虫のオリジナル漫画そのものが、第一級の映像作品になっていることが、却って妨げになっているのだとしたら、極めて残念なことだ。

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漫画でここまでの心理描写ができる奇跡

もう一つは、文学でしか表現できなかった繊細にして複雑な心理描写を漫画に取り入れたこと。これが可能となって初めて、ドストエフスキーに比肩できる漫画が登場しえたのだ。

言葉ではなく、絵(画)の力。つまり行動、アクションで登場人物の深い心理描写をする。正にハードボイルドの表現だ。それを漫画という絵(画)で自由自在に表現することができた手塚治虫は、正に天才であり、これが達成できたことで、日本の漫画は世界に類を見ない芸術になり得たのである。

こんな様々な映画や文学の手法を駆使して、苦悩する人間の魂を描き切っている。

こうしてドストエフスキーに比肩できる至高の人間ドラマを描くことができたのである。

我王を導いた良弁の生き様も圧巻だ

我王と茜丸の二人にどうしても関心が行ってしまうが、あの殺人鬼の我王を導いた良弁という高僧がまたとんでもない存在だ。

時の権力者にして、最後は自分のやってきたことに責任を取る壮絶な最期。その姿は正にこの鳳凰編全体の中でも最も深く心の中に刻み込まれるシーンの一つだろう。

良弁の生き様は、我王に勝るとも劣らない強烈なものだ。

良弁がいなければ我王の物語はなかったのである。

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エンディングの素晴らしさに涙が止まらない

最後に、我々はこれだけ過酷な人生を背負わされた我王の最後に到達した境地を、目撃することになる。

その素晴らしいこと。その描かれた世界の美しいこと。これはもう胸が詰まり、洗い清められ、涙が止まらなくなる。

思わず手を合わせたくなる瞬間だ。

あの「未来編」からちょうど1年後。手塚治虫は人類の未来に絶望しながらも、祈るしかなかった。それでもまたこの人間社会に戻り、この地上で怒り、絶望し、苦悩の淵に沈む人間の生き様をじっくりと見つめ続け、最後に与えたものは救済だったのだろうか。

実際に読んで、考えていただきたい。

未来編と鳳凰編の両方を読まなければ

火の鳥では「未来編」と「鳳凰編」の両方を読んで、この未曾有の天才の頭脳と向き合ってほしい。こんな信じられないものを書いてしまった日本人がいたことに心から感嘆してしまう。

いや、実は手塚治虫が日本人なんていうことはどうでもいいことかもしれない。こんな天才中の天才、桁外れの頭脳を持った人間が、この世に存在してくれたことに感謝するしかない。

 

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火の鳥(4(鳳凰編)) [ 手塚治虫 ]

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火の鳥4 鳳凰編 (角川文庫) [ 手塚 治虫 ]

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火の鳥 《オリジナル版》 鳳凰編 [ 手塚治虫 ]

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